福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第33段
西洋諸国の上流紳士学者の集会に談笑自在なるも、果たして君らの如き醜語を放って憚らざるものあるか、我輩の未だ知らざる所なり。けだし文明の社会にはかつて聞かざる所の醜語にてありながら、君らが常にこれを語りて憚る所なきは、日本の事は外人の知らざる所なりとして、強いて自ら安んずることならんなれども、前節にいえる如く、今日の日本は世界に対するの日本なり、いやしくも国を国として栄辱の所在を知るものは、君らの言行について不平なきを得ざるなり。また些細の事なれども手近く一例を示さんに、『時事新報』紙上に折々英語を記して訳文を添えたる西洋の落語また滑稽談の如きものは読者の知る所ならん。この文は西洋の新聞紙等より抜きたるものにして、必ずしもその記事の醜美を撰ぶにあらざれば、時々法外千万なる漫語放言もあれども、人生の内行に関するの醜談、即ち俗にいう下掛りのこととては、かつて一言もこれを見ず。その然る所以は、訳者が心を用いて特に避けたるにあらずして、原書中を求めて斯る醜談に見当たらざればなり。今仮に西洋の原書を離れて、これに易うるに日本流の落語滑稽を以てせんとして、その種類を集めたらばいかなるものを得べきや。談柄必ず肉体の区域に入りて、見苦しく聞き苦しきものは十中の七、八なるべし。畢竟我が人文のなお未だ鄙陋を免れざるの証として見るべきものなり。然り而してこの日本流の落語なりまた滑稽談なり、特に下等の民間に行わるる鄙陋なればなお恕すべしといえども、堂々たる上流の士君子と称する輩が、自ら鄙陋を犯してまた鄙陋を語り、醜臭を世界に放つが如きは、国民の標準たる士君子の徳義上において、遁るべからざるの罪というべし。
書き下し
西洋諸国の上流紳士学者の集会に談笑自在なるも、果たして君らの如き醜語を放って憚らざるものあるか、我輩の未だ知らざる所なり。けだし文明の社会にはかつて聞かざる所の醜語にてありながら、君らが常にこれを語りて憚る所なきは、日本の事は外人の知らざる所なりとして、強いて自ら安んずることならんなれども、前節にいえる如く、今日の日本は世界に対するの日本なり、いやしくも国を国として栄辱の所在を知るものは、君らの言行について不平なきを得ざるなり。また些細の事なれども手近く一例を示さんに、『時事新報』紙上に折々英語を記して訳文を添えたる西洋の落語また滑稽談の如きものは読者の知る所ならん。この文は西洋の新聞紙等より抜きたるものにして、必ずしもその記事の醜美を撰ぶにあらざれば、時々法外千万なる漫語放言もあれども、人生の内行に関するの醜談、即ち俗にいう下掛りのこととては、かつて一言もこれを見ず。その然る所以は、訳者が心を用いて特に避けたるにあらずして、原書中を求めて斯る醜談に見当たらざればなり。今仮に西洋の原書を離れて、これに易うるに日本流の落語滑稽を以てせんとして、その種類を集めたらばいかなるものを得べきや。談柄必ず肉体の区域に入りて、見苦しく聞き苦しきものは十中の七、八なるべし。畢竟我が人文のなお未だ鄙陋を免れざるの証として見るべきものなり。然り而してこの日本流の落語なりまた滑稽談なり、特に下等の民間に行わるる鄙陋なればなお恕すべしといえども、堂々たる上流の士君子と称する輩が、自ら鄙陋を犯してまた鄙陋を語り、醜臭を世界に放つが如きは、国民の標準たる士君子の徳義上において、遁るべからざるの罪というべし。
現代語訳
西洋諸国の上流の紳士や学者の集まりで、談笑が自在に行われるなかで、あなた方のような醜い言葉を放って憚らない者がいるでしょうか。私にはまだわかりません。思うに、文明の社会ではかつて聞いたことのない醜い言葉を、あなた方が常に語って憚らないのは、日本のことは外国人が知らないことだとして、強いて自分を安心させているのでしょうが、前節で述べたように、今日の日本は世界に対する日本です。国を国として栄誉と恥辱の所在を知る者は、あなた方の言行について不平を持たないわけにはいきません。また、些細なことですが、手近な一例を示しましょう。『時事新報』紙上で折々、英語を記して訳文を添えた西洋の落語や滑稽談のようなものは、読者もご存じでしょう。この文は西洋の新聞紙などから抜き出したもので、必ずしもその記事の美醜を選んでいるわけではないので、ときどき途方もないでたらめや放言もありますが、人間の家庭内の行いに関する醜い話、つまり俗にいう下ネタについては、これまで一言も見たことがありません。そうなる理由は、訳者が気をつかって特に避けたからではなく、原書のなかを探しても、そういう醜い話に出会わないからです。今仮に、西洋の原書を離れて、これを日本流の落語や滑稽に替え、その種類を集めたとしたら、どんなものが得られるでしょうか。話の中身が必ず肉体の領域に入って、見苦しく聞き苦しいものが十のうち七、八になるでしょう。結局、わが国の文化がまだ卑しさを免れていない証拠として見るべきものです。そして、この日本流の落語や滑稽談が、特に下層の民間で行われる卑俗なものであればまだ許せるとしても、堂々たる上流の士君子と称する連中が、自ら卑俗を犯し、また卑俗を語り、悪臭を世界に放つのは、国民の標準となるべき士君子の道徳上、逃れられない罪というべきです。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第32段数百年来の習俗なれば、これを酷に咎むるは無益の談に似たれども、今の日本は、これ日本国中の日本にあらずして、世界万国に対する文明世界中の日本なれば、いやしくも日本の栄誉を重んずる士人においては、少しく心する所のものなかるべからず。試みに一例を挙げて士人に問わん。君らがいわゆる盛会に例の如く妓を聘し酒を飲み得々談笑するときは勿論、時としては親戚・朋友・男女団欒たる内宴の席においても、一座少しく興に入るとき、盃盤を狼藉ならしむる者は、君らにあらずして誰ぞや。その狼藉はなお可なり、酒席の一興、かえって面白しとして恕すべしといえども、座中ややもすれば三々五々の群を成して、その談、花街柳巷の事に及ぶが如きは聞くに堪えず。そもそもその花柳の談を喋々喃々するは、何を談じ何を笑い、何を問い何を答うるや。別品といい色男といい、愉快といい失策というが如き、様々の怪語醜言を交え用いて、いかなる談話を成すや。酔狂喧嘩の殺風景なる、固より厭うべしといえども、花柳談の陰醜なるは酔狂の比にあらざるなり。もしも外国人の中に、日本語に通ずること最も巧みにして、談話の意味は勿論、その語気の微妙なる部分までも穎敏に解し得る者あるか、または日本人にして外国語を能くし、いかなる日本語にてもその真面目を外国語に写して毫も誤らざる者ありて、君らの談話を一より十に至るまで遺る所なく通弁しまた翻訳して、西洋文明国の中人以上、紳士貴女をしてこれを聴かしめ、またその訳文を読ましめたらば、かの士女は果たして如何の評を下すべきや。一切の事情をば問わずして、ただ喫驚の余りに、日本の紳士は下郎なりと放言し去ることならん。君らは斯る評論を被りて、果たして愧ずる所なきか。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第28段またあるいは説を作り、西洋文明の人と称する者にても、その男女の内行決して潔清なるにあらず、表面はともかくも、裏面に廻りて内部を視察すれば、醜に堪えざるもの多し、何ぞ必ずしも独り日本人を咎むるに足らんなどいう者なきにあらず。これは我が国の上流、殊に西洋家と称する一類の中に行わるる言なれども、全く無力の遁辞口実たるに過ぎず。そもそも人生の気力を平均すれば至って弱き者にして、ややもすれば艱難に敵して敗北すること少なからざるの常なり。然るに内行を潔清に維持して俯仰慚ずる所なからんとするは、気力乏しき人にとりて随分一難事とも称すべきものなるが故に、西洋の男女独り木石にあらずまた独り強者にあらず、俗にいう穴探しの筆法を以てその社会の陰処を摘発するにおいては、千百の醜行醜聞、枚挙に遑あらず。我輩は親しくその国人の言に聞きたることもあり、またその著書・新聞紙上に見たることもありて、誠に珍しからずといえども、然りといえども日本男子はこの西洋社会の醜行醜聞を見聞して如何の感をなすや。これを醜なりとするか、はた美なりとするか。我輩の聞かんと欲する所は、ただその醜美の判断如何の一点にあるのみ。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第30段日本男子の内行不取締は、その実において既に厭うべきもの少なからざるなおその上に、古来習俗の久しき、醜を醜とせずして愧ずるを知らざるのみならず、甚だしきに至りて、その狼藉無状の挙動を目して磊落と称し、赤面の中に自ずから得意の意味を含んで、世間の人もこれを許して問わず、上流社会にてはその人を風流才子と名づけて、人物に一段の趣を添えたるが如くに見え、下等の民間においても、色は男の働きなどいう通語を生じて、かつて憚る所なきは、その由来、けだし一朝一夕のことにあらず。我が王朝文弱の時代にその風を成し、玉の盃底なきが如しなどの語は、今に至るまで人口に膾炙する所にして、爾後武家の世にあっては、戸外兵馬の事に忙わしくして内を修むるに遑なく、下って徳川の治世に儒教大いに興りたれども、支那の流儀にして内行の正邪は深く咎めざるのみならず、文化文政の頃に至りては治世の極度、儒もまた浮文に流れて洒落放胆を事とし、殊に三都の如きはその最も甚だしきものにして、儒者文人の叢淵即ち不品行家の巣窟とも名づくべき悪風を成し、遂に徳川を終わりて明治の新世界に変じたれども、いわゆる洒落放胆の気風は今なお存して止まず、かの洋学者流の如き、その学ぶ所の事柄は全く儒林の外にして、仮令え西洋の宗教道徳門に入らざるも、その国人に接し、その言を聴き、その書を読み、その風俗を視察するときは、事の内実はともかくも、その表面のみにても、これを日本の事態に比して大いに異なる所あるを発明し、大いに悟りて自ら新たにし、儒流洒落の不品行を脱却して紳士の正に帰すべきはずなるに、言行一切西洋流なるにもかかわらず、内行の一点に至りては純然たる旧日本人の本色を失わざるもの多し。けだし社会一般の習俗に制せられて、醜を醜とするの明を失うたるものにして、あるいはこれを評し有心故造の罪にあらず、無心に悪を犯すの愚というも可ならん。この点より見れば悪むべきにあらず、むしろ憐れむべきのみ。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第26段然り而して日本国中その責に任ずる者は誰ぞや、内行を慎まざる軽薄男子あるのみ。この一点より考うれば、外国人の見る目如何などとて、その来訪のときに家内の体裁を取り繕い、あるいは外にして都鄙の外観を飾り、または交際の法に華美を装うが如き、誠に無益の沙汰にして、軽侮を来す所以の大本をば擱き、徒に末に走りて労するものというべきのみ。これを喩えば、大廈高楼の盛宴に山海の珍味を列ね、酒池肉林の豪、糸竹管絃の興、善尽し美尽して客を饗応するその中に、主人は独り袒裼裸体なるが如し。客たる者は礼の厚きを以てこの家に重きを置くべきや。饗礼は鄭重にして謝すべきに似たれども、何分にも主人の身こそ気の毒なる有様なれば、賓主の礼儀において陽に発言せざるも、陰に冷笑して軽侮の念を生ずることならん。労して功なく費やして益なきものというべし。されば今我が日本国が文明の諸外国に対して、その交際の公私に論なく、ややもすれば意の如くならざるは、原因のある所、一にして足らずといえども、我が男子が徳義上に軽侮を蒙るの一事は、その原因中の大箇条なるが故に、いやしくもこれに心付きたる者は、片時も猶予せずしてその過ちを改めざるべからず。今の世界に居て人生誰か自国を愛せざる者あらんや。国のためとあれば荊に坐し胆を嘗むるも憚らざるは人情の常なり。内行を慎むが如き、非常の辛苦にあらず。在昔はこれを戒むるの趣意、単にその人の一身にありしことなれども、今は則ち一国の栄辱に関して、更に重大の事とはなりたり。身を思い国を思う者は、深く自ら省みる所なかるべからざるなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第29段日本男子鉄面皮なるも、その眼に映じて醜なるものは醜にして、美なるものは美なるべし。既に醜美の判断を得たり、然らば則ち何ぞその醜を去って美に就かざるや。本来醜美は自身の内に存するものにして、毫末も他に関係あるべからず。いやしくも我が一身の内に美ならんか、身外満目の醜美は以て我が美を軽重するに足らず。あるいはこれに反して我が身に一点の醜を包蔵せんか、満天下に無限の醜を放つものあるも、その醜は以て我が醜を浄むるに足らず、また恕するに足らず。されば文明なる西洋諸国の社会にもなお醜行の盛んなるを見聞したらば、幸いに取って以て自省の材料にこそ供すべけれ、いかに自儘なる説を作るも、他の悪事を見て自家の悪事を恕するの口実に用いんとするが如きは、我輩の断じて許さざる所なり。近く比喩を以てこれを示さんに、不品行によりて徳を害するも、虎列剌毒に触れて身を害するも、その害は同様なるべし。然るに今虎列剌の流行に際して我が保身の法を如何するや。天下の人皆病毒に感ず、流行病は天下の流行にして、西洋諸国また然りとのことなれば、もはや我が身も自ら顧みるに遑あらず、共にその毒に伝染して広く世界の人と病苦死生を与にすべしとて、自暴自棄する者あるべきや。我輩未だその人を見ざるのみならず、その流行のいよいよ盛んなるに従って自ら戒むるの法もいよいよ綿密にして、謹慎に謹慎を加うるは、世界古今人情の常なり。人生の身体とその精神と、いずれをも軽しとしまた重しとすべからざるはいうまでもなきことにして、今内行の不取締は、人倫の大本を破りて先ず精神を腐敗せしむるものなり。身体を犯すの病毒はこれを恐るること非常にして、精神を腐敗せしむるの不品行は、世間に同行者の多きがためにとて自らこれを犯して罪を免れんとす。無稽もまた甚だしというべし。故にかの西洋家流が欧米の著書・新聞紙など読みてその陰所の醜を探り、ややもすればこれを公言して、以て冥々の間に自家の醜を瞞着せんとするが如き工風を運らすも、到底我輩の筆鋒を遁るるに路なきものと知るべし。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第31段前年外国よりある貴賓の来遊したるとき、東京の紳士と称する連中が頻りに周旋奔走して、礼遇至らざる所なきその饗応の一として、府下の芸妓を集め、大いに歌舞を催して一覧に供し、来賓も興に入りて満足したりとの事なりしが、実をいえばその芸妓なる者は大抵不倫の女子にして、歌舞の芸を演ずるの傍ら、往々言うべからざる醜行に身を汚し、ほとんど娼妓に等しき輩なれば、固より貴人の前に面すべき身分にあらず。西洋諸国の上流社会にてこの種の女子を賤しむは勿論、我が日本国においても、仮に封建時代の諸侯を饗するに今日の如き芸妓の歌舞を以てせんとしたらば、必ず不都合を訴うることならん。されば、かの貴賓もその芸妓の何ものたるを知らざりしこそ幸いなれ、もしも内実の事情を聞くこともありしならんには、饗応の満足に引替えて、失敬無状を憤りしことなるべし。これとてもさきの紳士連中は無礼と知りて行うたるにあらず、その平生において、男女品行上のことをば至って手軽に心得、ただ芸妓の容姿を悦び、美なること花の如しなどとて、徳義上の死物たる醜行不倫の女子も、潔清上品なる良家の令嬢も大同小異の観をなして、さては右の如き大間違いに陥りたるものならんのみ。我輩は直ちにその人を咎めずして、我が習俗の不取締にして人心の穎敏ならざるを嘆息する者なり。これを要するに、今の紳士も学者も不学者も、全体の言行の高尚なるにかかわらず、品行の一点においては、不釣合に下等なる者多くして、俗言これを評すれば、御座に出されぬ下郎と称して可なるが如し。花柳の間に奔々して青楼の酒に酔い、別荘妾宅の会宴に出入の芸妓を召すが如きは通常の人事にして、甚だしきは大切なる用談も、酒を飲み妓に戯るるの傍らにあらざれば、談者相互の歓心を結ぶに由なしという。醜極まりて奇と称すべし。
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