福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第34段
本編の趣旨は、初段の冒頭にもいえる如く、日本男児の品行を正し、その高きに過ぐる頭を取って押さえ、男女両性の地位に平均を得せしめんとするの目的を以て論緒を開き、人間道徳の根本は夫婦の間にあり、世間の道徳論者が自愛博愛などとてその得失を論ずる者あれども、本来私徳公徳の区別を知らざるものなれば、脩徳に前後緩急を誤ること多し、私徳は公徳の母にして、その私徳の根本は夫婦家に居るの大倫にあり、然り而して古来世の中の実際において、常にこの大倫を破る者は男子にして、我が日本国の如きはその最も甚だしきものなれば、多妻法、断じて許すべからず、斯る醜行を犯す者は、一家の不幸を醸して、禍を後世子孫に遺すのみならず、内行不取締は醜聞を世界万国に放つものにして、自国の名声を害するの罪人なり云々とて、筆鋒の向かう所は専ら男子にして、婦人の地位如何に論及したることなし。そもそも我が国の婦人を男子に比較するときは、全く地位を殊にし、居家内実の権力はともかくも、戸外交際の事に至りてはすべて男子のために専らにせられて、婦人は有れども無きに異ならず。特に男子が多妻の醜行を犯して婦人の情を痛ましむるが如き、ただに自愛に偏するのみならず私曲私慾の最も甚だしきものにして、更に一言の弁論あるべからず。我輩は常に世の道徳論者の言を聞き、論者が特にこの大切なる一点をば軽々看過してあたかも不問に附する者多きを見て窃かに怪しむのみか、その無識を冷笑するほどの次第なれば、大いに婦人の地位を推してこれを高処に進め、以て男子に拮抗せしめんとするの考案なきにあらず。徹頭徹尾、今の婦人と今の男子とを相対照して今の関係にあらしむるは、我輩のあくまでも悦ばざる所なれども、眼を転じて一方より考うれば、本来物の高低・強弱・大小等は相対の関係にして絶対の義にあらず。高きものあればこそ低きものもあり、強大あればこそ小弱もあり。故に今、婦人の地位を低しというも、男子の地位を引下げて併行するに至らしむれば、男女の権力平等なりというべし。あるいは婦人は今のままにして、男子の地位をして一層の下に就かしむれば、女権特に高しというべし。これ即ち我輩が独り男子を目的にして論鋒を差向けたる所以なり。
書き下し
本編の趣旨は、初段の冒頭にもいえる如く、日本男児の品行を正し、その高きに過ぐる頭を取って押さえ、男女両性の地位に平均を得せしめんとするの目的を以て論緒を開き、人間道徳の根本は夫婦の間にあり、世間の道徳論者が自愛博愛などとてその得失を論ずる者あれども、本来私徳公徳の区別を知らざるものなれば、脩徳に前後緩急を誤ること多し、私徳は公徳の母にして、その私徳の根本は夫婦家に居るの大倫にあり、然り而して古来世の中の実際において、常にこの大倫を破る者は男子にして、我が日本国の如きはその最も甚だしきものなれば、多妻法、断じて許すべからず、斯る醜行を犯す者は、一家の不幸を醸して、禍を後世子孫に遺すのみならず、内行不取締は醜聞を世界万国に放つものにして、自国の名声を害するの罪人なり云々とて、筆鋒の向かう所は専ら男子にして、婦人の地位如何に論及したることなし。そもそも我が国の婦人を男子に比較するときは、全く地位を殊にし、居家内実の権力はともかくも、戸外交際の事に至りてはすべて男子のために専らにせられて、婦人は有れども無きに異ならず。特に男子が多妻の醜行を犯して婦人の情を痛ましむるが如き、ただに自愛に偏するのみならず私曲私慾の最も甚だしきものにして、更に一言の弁論あるべからず。我輩は常に世の道徳論者の言を聞き、論者が特にこの大切なる一点をば軽々看過してあたかも不問に附する者多きを見て窃かに怪しむのみか、その無識を冷笑するほどの次第なれば、大いに婦人の地位を推してこれを高処に進め、以て男子に拮抗せしめんとするの考案なきにあらず。徹頭徹尾、今の婦人と今の男子とを相対照して今の関係にあらしむるは、我輩のあくまでも悦ばざる所なれども、眼を転じて一方より考うれば、本来物の高低・強弱・大小等は相対の関係にして絶対の義にあらず。高きものあればこそ低きものもあり、強大あればこそ小弱もあり。故に今、婦人の地位を低しというも、男子の地位を引下げて併行するに至らしむれば、男女の権力平等なりというべし。あるいは婦人は今のままにして、男子の地位をして一層の下に就かしむれば、女権特に高しというべし。これ即ち我輩が独り男子を目的にして論鋒を差向けたる所以なり。
現代語訳
本編の趣旨は、初めの段の冒頭にも述べたとおり、日本男子の品行を正し、その高すぎる頭を押さえて、男女両性の地位の均衡を得させようとする目的で論を始め、人間道徳の根本は夫婦の間にある、世間の道徳論者は自愛や博愛などとその得失を論じるが、そもそも私徳と公徳の区別を知らないので、修徳に前後・緩急の順序を誤ることが多い、私徳は公徳の母であり、その私徳の根本は夫婦が家に居るときの大きな倫理にある、そして古来、世の中の実際において、常にこの大倫を破るのは男子であり、我が日本国はその最も甚だしい例だから、多妻法は断じて許してはならない、こうした醜行を犯す者は、一家の不幸を招いて、禍を後世の子孫に残すだけでなく、内での行いの乱れは醜聞を世界万国に放つもので、自国の名声を害する罪人である、といった具合で、筆鋒の向かうところはもっぱら男子であり、婦人の地位についてどうあるべきかは論じてきませんでした。そもそも我が国の婦人を男子と比べると、まったく地位が異なり、家庭内の実質的な権力はともかく、戸外の交際のことになるとすべて男子が独占し、婦人は有るようで無いのと変わりません。とくに男子が多妻の醜行を犯して婦人の気持ちを傷つけるのは、ただ自分を愛するのに偏っているだけでなく、私曲私欲の最も甚だしいもので、さらに一言の弁論もありません。私は常々、世の道徳論者の言葉を聞き、論者がとくにこの大切な一点を軽々しく見過ごして、まるで不問に付す者が多いのを見て、ひそかに怪しむばかりか、その無識を冷笑するほどなので、大いに婦人の地位を推して高いところへ進め、男子に拮抗させようという考案がないわけではありません。始めから終わりまで、今の婦人と今の男子を対照して、現在の関係にしておくのは、私のあくまでも喜ばないところですが、視点を転じて別の方向から考えると、本来、物の高低・強弱・大小などは相対的な関係であって、絶対の意味ではありません。高いものがあるからこそ低いものがあり、強大なものがあるからこそ小さく弱いものがあります。ですから、今、婦人の地位が低いというのも、男子の地位を引き下げて並ぶようにすれば、男女の権力は平等だというべきです。あるいは婦人を今のままにして、男子の地位をもう一段低いところに置けば、女権は特に高いというべきです。これが私が男子だけを目的にして論鋒を向けた理由です。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第1段明治十八年夏の頃、『時事新報』に「日本婦人論」と題して、婦人の身は男子と同等たるべし、夫婦家に居て、男子のみ独り快楽を専らにし独り威張るべきにあらず云々の旨を記して、数日の社説に掲げ、また十九年五月の『時事新報』「男女交際論」には、男女両性の間は肉交のみにあらず、別に情交の大切なるものあれば、両性の交際自由自在なるべき道理を陳べたるに、世上に反対論も少なくして鄙見の行われたるは、記者の喜ぶ所なれども、右の「婦人論」なり、また「交際論」なり、いずれも婦人の方を本にして論を立てたるものにして、今の婦人の有様を憐れみ、何とかして少しにてもその地位の高まるようにと思う一片の婆心より筆を下したるが故に、その筆法は常に婦人の気を引き立つるの勢いを催して、男子の方に筆の鋒の向かわざりしは些と不都合にして、これを譬えば、ここに高きものと低きものと二様ありて、いずれも程好き中を得ざるゆえ、これを矯め直さんとして、ひたすらその低きものを助け、いかようにもしてこれを高くせんとて、ただ一方に苦心するのみにして、他の一方の高きに過ぐるものを低くせんとするの手段に力を尽さざりしものの如し。物の低きに過ぐるは固より宜しからずといえども、これを高くして高きに過ぐるに至るが如きは、むしろ初めのままに捨て置くに若かず。故に他の一方について高きものを低くせんとするの工風は随分難き事なれども、これを行うて失策なかるべきが故に、この一編の文においては、かの男子の高き頭を取って押さえて低くし、自然に男女両性の釣合をして程好き中を得せしめんとの腹案を以て筆を立て、「日本男子論」と題したるものなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第27段「日本男子論」の一編、その言既に長く、真正面より男子の品行を責めて一毫も仮さず、水も洩らさぬほどに論じ詰めたることなれば、世間無数疵持つ身の男子はあたかも弱点を襲われて遁るるに路なく、ただその心中に謂らく、内行の不取締、醜といわるれば醜なれども、詐偽・破廉恥にはあらず、また我が一身の有様は自ずから人に語るべからざる都合もあることなるに、斯くまでに酷言せずともなどといささか不平もありながら、さりとて何と答弁の辞もなくして甚だ苦しきことなるべし。我輩これを知らざるにあらずといえども、およそ今の日本国人として、現在の愉快、後世子孫の幸福は、何を以て最とするやと尋ねたらば、独立の体面を維持して日本国の栄名を不朽に伝うるのほかなかるべし。而してこの体面と栄名とを張るにいささかにても益すべきものはこれを採り、害すべきものはこれを除かんとするもまた、日本国民の身においてまさに然るべき至情なるべし。されば絶対の理論においては、人間世界の善悪邪正をいかなるものぞと論究して未だ定まらざるほどの次第なれば、まして男女の内行に関し、一夫一婦法と多妻多男法と、いずれか正、いずれか邪なる、固より明断し難しといえども、開闢以来の実験に拠り、また今日の文明説に従うときは、一家の私のため一国の公のために、多妻多男法は一夫一婦法の善きに若かず。かつ今日の世界は西洋文明の風に吹かれてこれに抵抗すべからざるの時勢なれば、文明の風に多妻多男を嫌忌して、そのこれを嫌忌するの成跡は甚だ美にして、今日の人の家を成し国を立つるに最も適当し、これに反するものは必ず害を被りて免るべからざること、既に明らかなれば、理論上の正邪はともかくも、一国人民として自国自家のために、決して軽んずべからざるの大義にして、即ち我輩がいかなる事情に逢うも、断乎として一毫をも仮さざる由縁なり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第36段今その然る所以の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然り而してその男子の如くなるや、知識気力の深浅強弱如何の辺に止まり、専ら精神を練るの教えを主として、当局の婦人においても、その範囲を脱せざれば甚だ佳しといえども、文明の事は有形の門より入るもの多きの例なれば、婦人の教育についてもその形を先にし、先ず衣裳を改めて文明の風を装い、交際を開いて文明の盛事を学び、只管外国婦人の所業に傚うて活溌を気取り、外面の虚飾を張りてかえって裏面の実を忘れ、活溌は漸く不作法に変じ、虚飾は遂に家計を寒からしめ、未だ西洋文明の精神を得ずして、早く既に自家遺伝の美徳美風を失うことなきを期すべからず。これらの弊害は事物の新旧交代の際に多少免るべからざるものとしてこれを忍ぶも、ここに忍ぶべからざるは、その弊害の極度に至り、今の婦人が男子の挙動に傚わんとして、今の日本男子の品行を学ぶが如きあらばこれを如何すべきや。日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽い、時として潔清義烈の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の婦人と西洋諸国の婦人と相対するときは、我に愧ずる所なきのみならず、往々上乗に位して、かの婦人の能くせざる所を能くし、その堪えざる所に堪え、彼をして慚死せしむるものさえ少なからず。内外人の共に許す所にして、即ち我が大日本の国光として誇るべきものなり。もしも年来日本男子をしてその醜行を恣にせしめて、一方に良家婦徳の凜然たるものなからしめなば、我が社会はほとんど暗黒世界たるべきはずなるに、幸いにしてその然らざるは、これを良婦人の賜といわざるを得ず。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第12段男女両性の関係は至大至重のものにして、夫婦同室の約束を結ぶときは、これを人の大倫と称し、社会百福の基、また百不幸の源たるの理由は、前に陳べたる所を以て既に明白なりとして、さて古今世界の実際において、両性のいずれかこの関係を等閑にして大倫を破るもの多きやと尋ぬれば、常に男性にありと答えざるを得ず。西洋文明の諸国においても皆然らざるはなきその中についても、日本の如きは最も甚だしきものにして、古来の習俗、一男多妻を禁ぜざるの事実を見ても、大概を窺い見るべし。西洋文明国の男女は果たして潔清なりやというに、決して然らず、極端について見れば不潔の甚だしきもの多しといえども、その不潔を不潔としてこれを悪み賤しむの情は日本人よりも甚だしくして、輿論の厳重なることはとても日本国の比にあらず。故に、かの国々の男子が不品行を犯すは、初めよりその不品行なるを知り、あたかも輿論に敵して窃かにこれを犯すことなれば、その事はすべて人間の大秘密に属して、言う者もなく聞く者もなく、事実の有無にかかわらず外面の美風だけはこれを維持してなお未だ破壊に至らずといえども、不幸なるは我が日本国の旧習俗にして、事の起源は今日、得て詳らかにするに由なしといえども、古来家の血統を重んずるの国風にして、嗣子なく家名の断絶する法律さえ行われたるほどの次第にて、頻りに子を生むの要用を感じ、その目的を達するには多妻法より便利なるものなきが故に、ここにおいてか妾を畜うの風を成したるものの如し。天理の議論などはともかくも、家名を重んずるの習俗に制せられて、止むを得ず妾を畜うの場合に至りしは無理もなきことにして、またこれ一国の一主義として恕すべきに似たれども、天下後世これより生ずる所の弊害は、実に筆紙にも尽し難きものあり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第37段然るに今日において、未だ男子の奔逸を縛するの縄は得ずして、先ずこの良家の婦女子を誘うて有形の文明に入らしめんとす、果たして危険なかるべきや。居は志を移すという。婦女子の精神未だ堅固ならざる者を率いて有形の文明に導くは、その居を変ずるものなり。その居既に変じてその志はいかに移るべきや。近く喩えを取り、今日の婦人女子をして、その良人父兄の品行を学ぶことあらしめたらばこれを如何せん。試みに男子の胸裡にその次第の図面を画き、我が妻女がまさしく我に傚い、我が花柳に耽ると同時に彼らは緑陰に戯れ、昨夜自分は深更家に帰りて面目なかりしが、今夜は妻女何処に行きしや、その場所さえ分明ならずなどの奇談もあるべしと想像したらば、さすがに磊落なる男子も慚愧に堪えざるのみならず、これは世教のために大変なりとて、自ら悚然たることならん。然るに婦女子の志の有形無心の文明に誘われて漸く活溌に移るの最中、あるいはこの想像画をして実ならしむるなきを期すべからず、恐るべきにあらずや。男子の不品行は既に日本国の禍源たり、これに加うるに女子の不品行を以てす、国のために不幸を二重にするものというべし。男子社会の不品行にして忌憚するなきその有様は、火の方に燃ゆるが如し。徳教の急務は百事を抛ち先ずこの火を消すにあるのみ。婦人の地位を高尚にするの新案は、あたかも我が国未曽有の家屋を新築するものにして、我輩固より意見を同じうするのみならず、敢えて発起者中の一部分を以て自ら居る者なれども、満目焔々たる大火の消防に忙わしくして、なお未だ新築に遑あらず。故に今後は、我輩の筆力のあらん限り、読者と共にこの消防法に従事して、先ず婦人の居を安からしめ、漸くその改良に着手せんと欲するものなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第13段さなきだに人類の情慾は自ずから禁じ難きものなるに、ここに幸いにも子孫相続云々の一主義あることなれば、この義を拡めていかなる事か行わるべからざらんや。妻を離別するも可なり、妾を畜うも可なり、一妾にして足らざれば二妾も可なり、二妾三妾随時随意にこれを取替え引替うるもまた可なり。人事の変遷、長き歳月を経る間には、子孫相続の主義はただに口実として用いらるるのみならず、早く既にその主義をも忘却し、一男にして衆婦人に接するは、あたかも男子に授けられたる特典の姿となり、以て人倫不取締の今日に至りしは、国民一家の不幸に止まらず、その禍は引いて天下に及ぼし、一家の私徳先ず紊れて社会交際の公徳を害し、立国の大本、動揺せざらんと欲するも得べからず。故に今日の日本男子にして内行の修まらざる者は、単に自家子孫の罪人のみにあらず、社会中の一人として、今の天下に対しまた後世に対して、その罪免るべからざるものなり。
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