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福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第17段

されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾潔清の節を守り、俯仰天地に愧ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色をも犯し、世を挙って皆酔うの最中、独り自ら醒め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業にあらず。即ち木石ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の体面のためと思えばこそ、敢えてこれを明言する者なけれども、その実は万物の霊たるを忘れて単に獣慾の奴隷たる者さえなきにあらず。 いやしくも潔清無垢の位に居り、この腐敗したる醜世界を臨み見て、自ら自身を区別するの心を生ぜざるものあらんや。僅かに資産の厚薄、才学の深浅を以てなおかつ他と伍をなすを屑しとせず。いわんや人倫の大本、百徳の源たる男女の関係につき、潔不潔を殊にするにおいてをや。他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々然として人の情を痛ましむることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢を容れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処に独り醜を恣にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎冒色勝手次第に飛揚して得々たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵持つ身の忽ち萎縮して顔色を失い、人の後に瞠若として卑屈慚愧の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。

書き下し

されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾潔清の節を守り、俯仰天地に愧ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色をも犯し、世を挙って皆酔うの最中、独り自ら醒め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業にあらず。即ち木石ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の体面のためと思えばこそ、敢えてこれを明言する者なけれども、その実は万物の霊たるを忘れて単に獣慾の奴隷たる者さえなきにあらず。 いやしくも潔清無垢の位に居り、この腐敗したる醜世界を臨み見て、自ら自身を区別するの心を生ぜざるものあらんや。僅かに資産の厚薄、才学の深浅を以てなおかつ他と伍をなすを屑しとせず。いわんや人倫の大本、百徳の源たる男女の関係につき、潔不潔を殊にするにおいてをや。他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々然として人の情を痛ましむることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢を容れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処に独り醜を恣にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎冒色勝手次第に飛揚して得々たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵持つ身の忽ち萎縮して顔色を失い、人の後に瞠若として卑屈慚愧の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。

現代語訳

そういうわけで、私徳を大切にするなかでも、男女の交際を厳しく慎み、最初から最後まで清らかな節度を守り、天地に対して恥じることのないようにしようとすれば、人生は非常に長く、その間にはさまざまな事情があるのですから、自分で血気を抑え、ときには人の顔色に逆らい、世の中がこぞって酔っているさなかに独り醒めて、左右を顧みず一人で勇んで進むことになり、決して容易な修養ではありません。つまり、木や石ではない人間にとっての難事業というべきものです。すでにこの修養を積んでから振り返って世間一般を見ると、腐敗した空気が満ちていて、醜さに耐えられません。無知無徳の下層社会はともかく、上流の富貴の人々や、学者と呼ばれる人々の間にも、口にするのも忍びないことが多いのです。人間にとっての大事、社会の体面のためと思えばこそ、あえてはっきり言う者がいないだけで、実際には、万物の霊長であることを忘れて、ただ獣のような欲望の奴隷になっている者さえいないわけではありません。 いやしくも清らかで汚れのない位置に身を置き、この腐敗した醜い世界を見渡して、自分をそれと区別する心が生じないということがあるでしょうか。わずかな財産の多い少ない、才能や学問の深い浅いだけでも、他の人と同列になるのを潔しとしないのですから、まして人倫の根本、あらゆる徳の源である男女の関係で、清いか不潔かを異にする場合はなおさらです。他人の醜い行いを見下さずにいようと思っても、できるものではありません。これは自分の精神を、自信と自重の高いところへ進めたものであり、精神がひとたび定まれば、その働きは人倫の領域にとどまりません。社会的な交際での振る舞いとなり、言葉遣いや応対の風格となり、堂々たる気が外にあふれて、身の外のあらゆるものを恐れる必要がなくなります。談笑も冗談も、進退も自由で、思うままに振る舞うようでありながら、その間に一点の汚れも残さず、ゆったりと余裕があって、人の気持ちを傷つけることがありません。思うに、清らかで汚れのない境地が極まると、かえって限りのない寛大さとなり、世の中のあらゆる汚れを受け入れても差し支えなくなるのでしょう。これを、あの世間の品行の悪い男たちが、社会の陰で独り醜行をほしいままにするのでなければ、仲間内で一座を開き、豪遊と名づけ愉快と称して、酒に溺れ色に耽り、勝手放題に浮かれて得意になっていながら、不幸にして君子の耳目に触れると、疵のある身がたちまち縮み上がって顔色を失い、人の後ろで茫然として卑屈と恥ずかしさをあらわにする、その様子が日光に当てられたモグラのようであるのと比べれば、もとより同日に論じられるものではありません。

解説

福沢は私徳、とくに男女関係での潔白を守ることを、世の流れに逆らう「難業」と位置づけます。しかも清潔さは自分を高く保つ自信となり、言葉や立ち居振る舞いににじみ、人を傷つけない寛大さにまでつながると説きます。『日本男子論』は1888年、一夫多妻や遊興を当然視する男性の風潮を批判した論説です。現代でも、立場のある人の私的な規律が、周囲への信頼や振る舞いの余裕を左右する面はあるでしょう。ただ、他人を「醜い」と見下す語り口には、読み手によって抵抗もありそうです。

この章句が説くこと

私徳潔清難業自信自重寛大浩然の気

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