福沢諭吉小品集 / 日本男子論・第16段
君子の世に処するには、自ら信じ自ら重んずる所のものなかるべからず。即ち自身の他に擢んでて他人の得て我に及ばざる所のものを恃みにするの謂にして、あるいは才学の抜群なるあり、あるいは資産の非常なるあり、皆以て身の重きを成して自信自重の資たるべきものなれども、就中私徳の盛んにしていわゆる屋漏に恥じざるの一義は最も恃むべきものにして、能くその徳義を脩めて家内に恥ずることなく戸外に憚る所なき者は、貧富・才不才に論なく、その身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位という。洋語にいうヂグニチーなるもの、これなり。そもそも人の私徳を脩むる者は、何故に自信自重の気象を生じて、自ら天下の高所に居るやと尋ぬるに、能く難きを忍んで他人の能くせざる所を能くするが故なり。例えば読書生が徹夜勉強すれば、その学芸の進歩如何にかかわらず、ただその勉強の一事のみを以て自ら信じ自ら重んずるに足るべし。寺の僧侶が毎朝早起、経を誦し粗衣粗食して寒暑の苦しみをも憚らざれば、その事は直ちに世の利害に関係せざるも、本人の精神は、ただその艱苦に当たるのみを以て凡俗を目下に見下すの気位を生ずべし。天下の人皆財を貪るその中に居て独り寡慾なるが如き、詐偽の行わるる社会に独り正直なるが如き、軽薄無情の浮世に独り深切なるが如き、いずれも皆抜群の嗜みにして、自信自重の元素たらざるはなし。如何となれば、書生の勉強、僧侶の眠食は身体の苦痛にして、寡慾、正直、深切の如きは精神の忍耐、即ち一方よりいえばその苦痛なればなり。
書き下し
君子の世に処するには、自ら信じ自ら重んずる所のものなかるべからず。即ち自身の他に擢んでて他人の得て我に及ばざる所のものを恃みにするの謂にして、あるいは才学の抜群なるあり、あるいは資産の非常なるあり、皆以て身の重きを成して自信自重の資たるべきものなれども、就中私徳の盛んにしていわゆる屋漏に恥じざるの一義は最も恃むべきものにして、能くその徳義を脩めて家内に恥ずることなく戸外に憚る所なき者は、貧富・才不才に論なく、その身の重きを知って自ら信ぜざるはなし。これを君子の身の位という。洋語にいうヂグニチーなるもの、これなり。そもそも人の私徳を脩むる者は、何故に自信自重の気象を生じて、自ら天下の高所に居るやと尋ぬるに、能く難きを忍んで他人の能くせざる所を能くするが故なり。例えば読書生が徹夜勉強すれば、その学芸の進歩如何にかかわらず、ただその勉強の一事のみを以て自ら信じ自ら重んずるに足るべし。寺の僧侶が毎朝早起、経を誦し粗衣粗食して寒暑の苦しみをも憚らざれば、その事は直ちに世の利害に関係せざるも、本人の精神は、ただその艱苦に当たるのみを以て凡俗を目下に見下すの気位を生ずべし。天下の人皆財を貪るその中に居て独り寡慾なるが如き、詐偽の行わるる社会に独り正直なるが如き、軽薄無情の浮世に独り深切なるが如き、いずれも皆抜群の嗜みにして、自信自重の元素たらざるはなし。如何となれば、書生の勉強、僧侶の眠食は身体の苦痛にして、寡慾、正直、深切の如きは精神の忍耐、即ち一方よりいえばその苦痛なればなり。
現代語訳
君子が世に処するには、自ら信じ自ら重んじるものがなければならない。つまり自分が他に抜きん出て、他人が自分に及ばないところのものを頼みにするということで、あるいは才学が抜群であったり、あるいは資産が非常に多かったり、みな身の重みを成して自信自重の資となるものだが、なかでも私徳が盛んで、いわゆる屋漏に恥じないという一義はもっとも頼むべきもので、その徳義をよく修めて家内に恥じることなく戸外にはばかる所のない者は、貧富・才不才を問わず、その身の重みを知って自ら信じないということはない。これを君子の身の位という。西洋語でいうディグニティというものがこれである。そもそも人の私徳を修める者は、なぜ自信自重の気象を生じて、自ら天下の高所に居るのかと尋ねれば、よく難きを忍んで他人のできないことをよくするからである。たとえば読書生が徹夜で勉強すれば、その学芸の進歩がどうであれ、ただその勉強の一事だけをもって、自ら信じ自ら重んじるに足りる。寺の僧侶が毎朝早起きして経を唱え、粗末な衣食で寒暑の苦しみもはばからなければ、その事は直ちに世の利害に関係しなくても、本人の精神は、ただその艱苦に当たるというだけで凡俗を見下す気位を生じる。天下の人がみな財をむさぼるなかに独り欲が少なかったり、偽りが行われる社会に独り正直であったり、軽薄無情の浮世に独り親切であったりするのは、いずれもみな抜きん出たたしなみで、自信自重の元素でないものはない。なぜなら、書生の勉強や僧侶の寝起きは身体の苦痛であり、寡欲・正直・親切のようなものは精神の忍耐、つまり一方からいえばその苦痛だからである。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第17段されば私徳を大切にするその中についても、両性の交際を厳にして徹頭徹尾潔清の節を守り、俯仰天地に愧ずることなからんとするには、人生甚だ長くしてその間に千種万様の事情あるにもかかわらず、自ら血気を抑えて時としては人の顔色をも犯し、世を挙って皆酔うの最中、独り自ら醒め、独行勇進して左右を顧みざることなれば、随分容易なる脩業にあらず。即ち木石ならざる人生の難業ともいうべきものにして、既にこの業を脩めて顧みて凡俗世界を見れば、腐敗の空気充満して醜に堪えず。無知無徳の下等社会はともかくも、上流の富貴または学者と称する部分においても、言うに忍びざるもの多し。人間の大事、社会の体面のためと思えばこそ、敢えてこれを明言する者なけれども、その実は万物の霊たるを忘れて単に獣慾の奴隷たる者さえなきにあらず。 いやしくも潔清無垢の位に居り、この腐敗したる醜世界を臨み見て、自ら自身を区別するの心を生ぜざるものあらんや。僅かに資産の厚薄、才学の深浅を以てなおかつ他と伍をなすを屑しとせず。いわんや人倫の大本、百徳の源たる男女の関係につき、潔不潔を殊にするにおいてをや。他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、身外の万物恐るるに足るものなし。談笑洒落・進退自由にして縦横憚る所なきが如くなれども、その間に一点の汚痕を留めず、余裕綽々然として人の情を痛ましむることなし。けだし潔清無垢の極はかえって無量の寛大となり、浮世の百汚穢を容れて妨げなきものならんのみ。これを、かの世間の醜行男子が、社会の陰処に独り醜を恣にするにあらざれば同類一場の交際を開き、豪遊と名づけ愉快と称し、沈湎冒色勝手次第に飛揚して得々たるも、不幸にして君子の耳目に触るるときは、疵持つ身の忽ち萎縮して顔色を失い、人の後に瞠若として卑屈慚愧の状を呈すること、日光に当てられたる土鼠の如くなるものに比すれば、また同日の論にあらざるなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第19段人間処世の権理に公私の区別ありて、先ず私権を全うして然る後、公権の談に及ぶべしとの次第は、かつて『時事新報』の紙上にも記したることなるが(去年十月六日より同十二日までの『時事新報』「私権論」)、そもそもこの私権の思想の発生する事情は種々様々なれども、最第一の原因は、本人の自ら信じ自ら重んずるの心にあって存するものと知るべし。即ち我が徳義を円満無欠の位に定め、一身の尊きこと玉璧もただならず、これを犯さるるは、あたかも夜光の璧に瑕瑾を生ずるが如き心地して、片時も注意を怠ることなく、穎敏に自ら衛りて、始めて私権を全うするの場合に至るべし。されば今、私権を保護するは全く法律上の事にして、徳義には縁なきものの如くに見ゆれども、元これを保護せんとするの思想は、円満無欠なる我が身に疵つくるを嫌うの一念より生ずるものなれば、いやしくも内に自ら省みて疚しきものあるにおいては、その思想の発達、決して十分なるを得べからず。如何となれば本人は元来疵持つ身にして、その気既に餒えたるが故に、大節に臨んで屈することなきを得ず。即ち人心の働きの定則として、一方に本心を枉げて他の一方にこれを伸ばすの道理あらざればなり。私徳を修めて身を潔清の位に置くと、私権を張りて節を屈せざると、二者その趣を殊にするが如くなれども、根本の元素は同一にして、私徳私権相関し、徳は権の質なりというべし。試みにこれを歴史に徴するに、義気凜然として威武も屈する能わず富貴も誘う能わず、自ら私権を保護して鉄石の如くなる士人は、その家に居るや必ず優しくして情に厚き人物ならざるはなし。即ち戸外の義士は家内の好主人たるの実を見るべし。いかなる場合にも放蕩無情、家を知らざるの軽薄児が、能く私権のために節を守りて義を全うしたるの例は、我輩の未だ聞かざる所なり。
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福沢諭吉小品集・修身要領・第1段文明日新の修身処世法は、如何なる主義に依り如何なる方向に進む可きやとは、今の青年学生の大に惑ふ所にして、先輩に対して屡質問を起すものあり。福沢先生これに答ふる為めにとて、生等に嘱して文案を草せしむ。即ち先生平素の言行に基き、其大要を述べて、先生の閲覧を乞ひ、之を修身要領と名け、学生に示すこと左の如し。 明治三十三年二月紀元節 慶応義塾社中某々誌 凡そ日本国に生々する臣民は、男女老少を問はず、万世一系の帝室を奉戴して、其恩徳を仰がざるものある可らず。此一事は、満天下何人も疑を容れざる所なり。而して今日の男女が今日の社会に処する道を如何す可きやと云ふに、古来道徳の教、一にして足らずと雖も、徳教は人文の進歩と共に変化するの約束にして、日新文明の社会には自から其社会に適するの教なきを得ず。即ち修身処世の法を新にするの必要ある所以なり。 第一条 人は人たるの品位を進め、智徳を研き、ます/\其光輝を発揚するを以て、本分と為さざる可らず。吾党の男女は、独立自尊の主義を以て修身処世の要領と為し、之を服膺して、人たるの本分を全うす可きものなり。 第二条 心身の独立を全うし、自から其身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ。 第三条 自から労して自から食ふは、人生独立の本源なり。独立自尊の人は自労自活の人たらざる可らず。 第四条 身体を大切にし健康を保つは、人間生々の道に欠く可らざるの要務なり。常に心身を快活にして、苟めにも健康を害するの不養生を戒む可し。 第五条 天寿を全うするは人の本分を尽すものなり。原因事情の如何を問はず、自から生命を害するは、独立自尊の旨に反する背理卑怯の行為にして、最も賤む可き所なり。 第六条 敢為活溌堅忍不屈の精神を以てするに非ざれば、独立自尊の主義を実にするを得ず。人は進取確守の勇気を欠く可らず。 第七条 独立自尊の人は、一身の進退方向を他に依頼せずして、自から思慮判断するの智力を具へざる可らず。 第八条 男尊女卑は野蛮の陋習なり。文明の男女は同等同位、互に相敬愛して各その独立自尊を全からしむ可し。
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荀子・非十二子篇士君子の能く為す所と能く為さざる所とあり。君子は貴ばるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず。信ぜらるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を信ぜしむること能わず。用いらるべきを為すこと能うも、人をして必ず己を用いしむること能わず。故に君子は脩めざるを恥じて、汙(けが)さるるを恥じず。信ならざるを恥じて、信ぜられざるを恥じず。能わざるを恥じて、用いられざるを恥じず。是を以て譽(ほまれ)に誘われず、誹(そし)りに恐れず、道に率(したが)いて行い、端然として己を正し、物の為に傾側せず。夫れ是を之(こ)れ誠の君子と謂う。詩に云う、「溫溫たる恭人は、維(こ)れ德の基(もとい)なり」と。此れ之の謂いなり。
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『慎思録』巻之二君子は己を責むるの心常に多く、人を責むるの心常に少なし。怨悪の心常に少なく、宥恕の心常に多し。坦として蕩々にして楽しみ多き所以なり。小人は之に反す。長く戚々として憂ひ多き所以なり。程子曰く、信に二般有り。人を信ずる者有り、自ら信ずる者有り。学者須らく自ら信ずることを要すべし。既に自ら信ずれば、怎生ぞ奪ふも亦た得ず、と。愚謂ふ、程子の言は、己に善有りて自ら信ずる者の為に発す。古語に所謂礼儀愆らずんば何ぞ人の言を恤へんと、淮南子に所謂自ら信ずる者は誹誉を以て遷すべからずといふ者の如き、是れなり。今の人を信ずる者の如きは、其の人に非ざるを信ず。是れ人を知らざるなり。自ら信ずる者、苟も吾が不是を知らずして自ら是とするは、是れ己を知らざるなり。二者の知らざること亦た甚だし。其の自ら信ずる者は、孔子の所謂之に居りて疑はざる者なり。厚顔自ら亢ぶり、是れ自ら我が非を信じて疑はざる者なり。是を以て人を欺くに足る。然れども昧き者は其の非を弁ずること能はず。此を以て妄りに其の人を信ずる者も、亦た之有り。唯だ信ずべきの人を信ずれば、便ち以て人を信ずるの道を得たりと為すべきなり。今人は信ずべきの人を信ぜずして、却って信ずべからざるの人を信ず。不明にして妄謬なりと謂ふべきなり。
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福沢諭吉小品集・日本男子論・第36段今その然る所以の理由を述べんに、婦人の地位の低きとは、男子に対して低きことなれば、これを引上げて高き処に置かんとするに当たり、第一着に心頭に浮ぶものは、とにかくに、今の婦人をして今の男子の如くならしめんとするの思想なるべし。然り而してその男子の如くなるや、知識気力の深浅強弱如何の辺に止まり、専ら精神を練るの教えを主として、当局の婦人においても、その範囲を脱せざれば甚だ佳しといえども、文明の事は有形の門より入るもの多きの例なれば、婦人の教育についてもその形を先にし、先ず衣裳を改めて文明の風を装い、交際を開いて文明の盛事を学び、只管外国婦人の所業に傚うて活溌を気取り、外面の虚飾を張りてかえって裏面の実を忘れ、活溌は漸く不作法に変じ、虚飾は遂に家計を寒からしめ、未だ西洋文明の精神を得ずして、早く既に自家遺伝の美徳美風を失うことなきを期すべからず。これらの弊害は事物の新旧交代の際に多少免るべからざるものとしてこれを忍ぶも、ここに忍ぶべからざるは、その弊害の極度に至り、今の婦人が男子の挙動に傚わんとして、今の日本男子の品行を学ぶが如きあらばこれを如何すべきや。日本国人の品行美ならずといえども、なお今日までにこれを維持してその醜を蔽い、時として潔清義烈の光を放って我が社会の栄誉を地に落つることなからしめたるものは何ぞや。ただ良家の婦人女子あるのみ。現に今日にあっても私徳品行の一点に至り、我が日本の婦人と西洋諸国の婦人と相対するときは、我に愧ずる所なきのみならず、往々上乗に位して、かの婦人の能くせざる所を能くし、その堪えざる所に堪え、彼をして慚死せしむるものさえ少なからず。内外人の共に許す所にして、即ち我が大日本の国光として誇るべきものなり。もしも年来日本男子をしてその醜行を恣にせしめて、一方に良家婦徳の凜然たるものなからしめなば、我が社会はほとんど暗黒世界たるべきはずなるに、幸いにしてその然らざるは、これを良婦人の賜といわざるを得ず。
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