福沢諭吉小品集 / 徳育如何・第10段
我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。 たとえば支那と日本の習慣の殊なるもの多し。就中、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人の出処を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉の宣王に用いられずして梁の恵王を干すも、君に仕うること容易なるものなり。遽伯玉の如き、「邦有レ道則仕、邦無レ道則可二巻而懐一レ之」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵ただならざるを見るべし。
書き下し
我が輩は前節において、教育改良の意見を述べ、その主とするところは、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがって水を治むるが如くならしめんことを欲する者なりと記したれども、その言少しく漠然たるがゆえに、今ここに一、二の事実を証してその意を明らかにせん。元来、我が輩の眼をもって周公孔子の教を見れば、この教の働をもって人心を動かすこと、もとより少なからずといえども、その働は決して無限のものに非ずして、働の達するところに達すれば、毫も運動をたくましゅうすること能わざるものなりと信ず。すなわちその極点は、この教を奉ずる国民の公議輿論に適すべき部分にかぎりて働を呈し、それ以上においては輿論のために制せらるるを常とす。 たとえば支那と日本の習慣の殊なるもの多し。就中、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人の出処を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉の宣王に用いられずして梁の恵王を干すも、君に仕うること容易なるものなり。遽伯玉の如き、「邦有レ道則仕、邦無レ道則可二巻而懐一レ之」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵ただならざるを見るべし。
現代語訳
私は前節で、教育改良についての意見を述べ、その主眼は、天下の世論に従ってこれを導き、自然にその行く所に行かせ、その止まる所に止まらせ、世論とともに順に帰らせること、流れに従って水を治めるようにさせたいということだと記したが、その言葉が少し漠然としているので、今ここに一、二の事実を挙げてその意味を明らかにしよう。もともと私の目で周公・孔子の教えを見れば、この教えの働きが人の心を動かすことは、もとより少なくはないが、その働きは決して無限のものではなく、働きの届く所に届けば、少しも勢いを強めることができないものだと信じる。すなわちその極点は、この教えを奉じる国民の世論に適合する部分に限って働きを現し、それ以上では世論に制せられるのが常である。 たとえば支那と日本は習慣の異なる点が多い。なかでも、周の封建の時代と我が徳川政府の封建の時代とは、同じく封建であっても、その士人の進退を見ると、支那では道が行われなければ去るといって、その去就はまことにたやすい。孔子は十二の君主に仕えたといい、孟子が斉の宣王に用いられずに梁の恵王に求めたのも、君主に仕えることがたやすいからである。蘧伯玉のように、「邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち巻いてこれを懐にすべし」といって、自国を重んじる念がきわめて薄いように見えても、かつて非難を受けたことがないばかりか、かえって聖人の称賛を得た。これに反して日本では士人の去就はきわめて厳しい。「忠臣は二君に仕えず、貞婦は両夫に見えず」とは、ほとんど下層の社会にまで通用する教えで、特別の理由がなければこの教えに背くことを許さない。日本と支那の両国の気風、すなわち両国で行われている世論が互いに異なり、天と淵ほどの隔たりがあることが見て取れる。
解説
この章句が説くこと
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福沢諭吉小品集・徳育如何・第11段然るにその国人のもっとも尊崇する徳教は何ものなるぞと尋ぬるに、支那人も聖人の書を読みて忠孝の教を重んじ、日本人もまた然り。ひとしく同一の徳教を奉じてその徳育を蒙る者が、人事の実際においてはまったく反対の事相を呈す。怪しむべきに非ずや。ひっきょう、徳教の働は、その国の輿論に妨なき限界にまで達して、それ以上に運動するを得ざるの実証なり。もしもこの限界を越ゆるときは、徳教の趣を変じて輿論に適合し、その意味を表裏・陰陽に解して、あたかも輿論に差支なきの姿を装い、もってその体をまっとうするの実を見るべし。蛮夷、夏を乱だるは聖人の憂うるところなれども、その聖人国を蛮夷に奪われたるは今の大清なれども、大清の人民もまた聖人の書をもって教となすべし。徳川政府も忠義の道をもって天朝に奉じて、まことに忠義なりしかども、末年にいたり公議輿論をもってその政府を倒せば、これを倒したる者もまた、まことに忠義なり。ゆえに支那にて士人の去就を自在にすれば聖人に称せられ、日本にて同様の事を行えば聖人の教に背くとて、これを咎むべし。 蛮夷が中華を乱だるも、聖人の道をもってこれを防ぐべし。すでにこれを乱だりてこれを押領したるうえは、また、聖人の道をもってこれを守るべし。敵のためにも可なり、味方のためにも可なり。その働くべき部分の内にありて自由に働をたくましゅうし、輿論にあえばすなわち装を変ずべし。これすなわち聖教の聖教たるゆえんにして、尋常一様、小儒輩の得て知るところに非ざるなり。(孟子に放伐論ありなどとて、その書を忌むが如きも小儒の考にして、笑うに堪えたるものなり。数百年間、日本人が孟子を読みて、これがために不臣の念を起したるものあるを聞かず。書中の一字一句、もって人心を左右するにたるものなりとすれば、君臣の義理固き我が国において、十二君に歴事し公山仏の召にも応ぜんとしたる孔子の書を読むもまた不都合ならん。※々然たる儒論、取るに足らざるなり。)
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福沢諭吉小品集・徳育如何・第7段然りといえども、以上枚挙するところは十五年来の実際に行われ、今日の法律においてこれを許し、今日の習慣においても大いにこれを咎ること能わざるものなり。徳教の老眼をもってこの有様を見れば、まことに驚くに堪えたり。元禄年間の士人を再生せしめて、これに維新以来の実況を語り、また、今の世事の成行を目撃せしめたらば、必ず大いに驚駭して、人倫の道も断絶したる暗黒世界なりとて、痛心することならんといえども、いかんせん、この世態の変は、十五年以来、我が日本人が教育を怠りたるのゆえに非ず。ただ開進の風に吹かれて輿論の面目を改めたるがためなり。けだし輿論の面目とは、全国人事の全面目にして、学校教育の如きもこの全面目中の一部分たるに過ぎざるのみ。 されば今の世の教育論者が、今のこの不遜軽躁なる世態に感動してこれを憂うるははなはだ善し。またこれに驚くも至当の事なれども、論者はこれを憂い、これに驚きて、これを古に復せんと欲するか。すなわち元禄年間の士人と見を同じゅうして、元禄の忠孝世界に復古せんと欲するか。論者が、しきりに近世の著書・新聞紙等の説を厭うて、もっぱら唐虞三代の古典を勧むるは、はたしてこの古典の力をもって今の新説を抹殺するに足るべしと信ずるか。しかのみならず論者が、今の世態の、一時、己が意に適せずして局部に不便利なるを発見し、その罪をひとり学校の教育に帰して喋々するは、はたしてその教育をもって世態を挽回するに足るべしと信ずるか。我が輩はその方略に感服する能わざるものなり。 そもそも明治年間は元禄に異なり。その異なるは教育法の異なるに非ず、公議輿論の異なるものにして、もしも教育法に異なるものあらば、これをして異ならしめたるものは、公議輿論なりといわざるをえず。而して明治年間の公議輿論は何によりて生じたるものなりやと尋ぬれば、三十年前、我が開国と、ついで政府の革命、これなりと答えざるをえず。開国革命、もって今の公議輿論を生じて、人心は開進の一方に向い、その進行の際に弊風もまた、ともに生じて、徳教の薄きを見ることなきに非ざるも、法律これを許し、習慣これを咎めず。
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福沢諭吉小品集・徳育如何・第8段はなはだしきは道徳教育論に喋々するその本人が、往々開進の風潮に乗じて、利を射り、名を貪り、犯すべからざるの不品行を犯し、忍ぶべからざるの刻薄を忍び、古代の縄墨をもって糺すときは、父子君臣、夫婦長幼の大倫も、あるいは明を失して危きが如くなるも、なおかつ一世を瞞着して得々横行すべきほどの、この有力なる開進風潮の中にいながら、学校教育の一局部を変革して、もって現在の世態を左右せんと欲するが如きは、肥料の一品を加減して草木の生々を自在にせんとする者に異ならず。 たとい、あるいはその教育も、他の人事とともに歩をともにして進退するときは、すこぶる有力なる方便なりというも、その効験の現わるるはきわめて遅々たるものにして、肥料の草木におけるが如くなるを得ず。ますますその迂闊なるを見るべきのみ。 されば今の世の子弟が不遜軽躁なることもあらば、その不遜軽躁は天下の大教場たる公議輿論をもって教えたるものなれば、この教場の組織を変革するに非ざれば、その弊を矯るによしなし。而してその変革に着手せんとするも、今日の勢において、よく導きて古に復するを得べきや。今の法律を改めて旧套に返るべきや。平民の乗馬を禁ずべきや。次三男の自主独立をとどむべきや。 これを要するに、開進の今日に到着して、かえりみて封建世禄の古制に復せんとするは、喬木より幽谷に移るものにして、何等の力を用うるも、とうてい行わるべからざることと断定せざるをえず。目今その手段を求めて得ざるものなり。論者といえども自から明らかに知るところならん。すでに大教場の変革に手段なきを知らば、局部の学校を変革するも無益なるや明らかなり。ゆえに我が輩は今の世態に満足する者に非ず、少年子弟の不遜軽躁なるを見て、これを賛誉する者に非ずといえども、その局部について直接に改良を求めず、天下の公議輿論にしたがいてこれを導き、自然にその行くところに行かしめ、その止まるところに止まらしめ、公議輿論とともに順に帰せしむること、流にしたがいて水を治むるが如くならんことを欲する者なり。
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福沢諭吉小品集・物理学の要用・第2段我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々するを忌むにいたれり。たとえば、儒者が易経を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮を弄ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私なれども、この私論の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。 支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源を同じゅうして、その社会に分布したる結果において、まったく相反するは、偶然に非ずして何ぞや。けだし、支那の儒教は敵なきがゆえに、その惑溺をたくましゅうし、日本の儒教は勁敵に敵して自から警めたるものなり。かつ我が儒者はたいがい皆、武人の家に生れたる者にして、文采風流の中におのずから快活の精神を存し、よく子弟を教育してその気風を養い、全国士族以上の者は皆これに靡ざるはなし。改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。 右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の幽冥説に惑溺すること、はなはだ少なしといえども、その、これに惑溺せざるは、ただ一時仏者に敵するの熱心に乗じたるものにして、天然の真理原則を推究したる知識の働に非ざるがゆえに、幽冥説に向って淡白なるほどに、物理においてもまた自から漠然たるの情あるが如し。
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福沢諭吉小品集・徳育如何・第4段方今、世に教育論者あり。その言にいわく、近来我が国の子弟は、その品行ようやく軽薄におもむき、父兄の言を用いず、長老の警をかえりみず、はなはだしきは弱冠の身をもって国家の政治を談じ、ややもすれば上を犯すの気風あるが如し。ひっきょう、学校の教育不完全にして徳育を忘れたるの罪なりとて、専ら道徳の旨を奨励するその方便として、周公孔子の道を説き、漢土聖人の教をもって徳育の根本に立てて、一切の人事を制御せんとするものの如し。 我が輩は論者の言を聞き、その憂うるところははなはだもっともなりと思えども、この憂いを救うの方便にいたりては毫も感服すること能わざる者なり。そもそも論者の憂うるところを概言すれば、今の子弟は上を敬せずして不遜なり、漫に政治を談じて軽躁なりというにすぎず。論者の言、はなはだ是なり。我が輩とてももとより同憂なりといえども、少年輩がかくまでにも不遜軽躁に変じたるは、たんに学校教育の欠点のみによりて然るものか。もしも果して然るものとするときは、この欠点は何によりて生じたるものか、その原因を推究すること緊要なり。 教育の欠点といえば、教師の不徳と教書の不経なることならん。然るに我が日本において、開闢以来稀なる不徳の教師を輩出して、稀なる不経の書を流行せしめたるは何ものなるぞや。あるいは前年、文部省より定めたる学制によりて然るものなりといわんか、然らばすなわち文部省をしてかかる学制を定めしめたるは何ものなるぞや。これを推究せざるべからず。我が輩の所見においては、これを文部省の学制に求めず、また教師の不徳、教書の不経をも咎めず。これらは皆、事の近因として、さらにこの近因を生じたる根本の大原因に溯るに非ざれば、事の得失を断ずるに足らざるを信ずるものなり。けだしその原因とは何ぞや。我が開国に次で政府の革命、すなわちこれなり。
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『論語と算盤』教育と情誼・其罪果して孰れに在りや支那が後に悪いからとて孔子を軽んぜぬでもよい。支那が善いからとても桀紂を重んずる訳には行かない。ゆえに孔子が主として子弟を導いた有様は、誠に師たり弟子たる間柄がごく善いと思う。かくのごとき有様を今日求める訳には行かぬけれども、徳川時代においても師弟間の感化力は強かった。その情誼が切実であったということは、試みに一例を言わんか、熊沢蕃山が中江藤樹に師事した有様などで分かる。蕃山はあれほど気位の高い人であって、いわゆる威武に屈せず、富貴に蕩せずという、天下の諸侯を物の数ともせず、備前侯に仕えたが、師として敬せられたから、政を施したくらいの見識のあった人だが、中江藤樹に向かっては真に子供のようになって、三日忍んでそうして弟子たることを得た。その師弟間の情愛の深かったのは、けだし中江藤樹の徳望が人を感化せしめたものと思う。また新井白石という人も剛情で、智略といい、才能といい、また気象といい、実に稀有の人である。それが終身木下順庵には服従していたということである。
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