導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

福沢諭吉小品集 / 物理学の要用・第2段

我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々するを忌むにいたれり。たとえば、儒者が易経を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮を弄ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私なれども、この私論の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。 支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源を同じゅうして、その社会に分布したる結果において、まったく相反するは、偶然に非ずして何ぞや。けだし、支那の儒教は敵なきがゆえに、その惑溺をたくましゅうし、日本の儒教は勁敵に敵して自から警めたるものなり。かつ我が儒者はたいがい皆、武人の家に生れたる者にして、文采風流の中におのずから快活の精神を存し、よく子弟を教育してその気風を養い、全国士族以上の者は皆これに靡ざるはなし。改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。 右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の幽冥説に惑溺すること、はなはだ少なしといえども、その、これに惑溺せざるは、ただ一時仏者に敵するの熱心に乗じたるものにして、天然の真理原則を推究したる知識の働に非ざるがゆえに、幽冥説に向って淡白なるほどに、物理においてもまた自から漠然たるの情あるが如し。

書き下し

我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々するを忌むにいたれり。たとえば、儒者が易経を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮を弄ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私なれども、この私論の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。 支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源を同じゅうして、その社会に分布したる結果において、まったく相反するは、偶然に非ずして何ぞや。けだし、支那の儒教は敵なきがゆえに、その惑溺をたくましゅうし、日本の儒教は勁敵に敵して自から警めたるものなり。かつ我が儒者はたいがい皆、武人の家に生れたる者にして、文采風流の中におのずから快活の精神を存し、よく子弟を教育してその気風を養い、全国士族以上の者は皆これに靡ざるはなし。改進の用意十分に熟したるものというべし。」云々。 右の如く、我が国上等社会の人は、無稽の幽冥説に惑溺すること、はなはだ少なしといえども、その、これに惑溺せざるは、ただ一時仏者に敵するの熱心に乗じたるものにして、天然の真理原則を推究したる知識の働に非ざるがゆえに、幽冥説に向って淡白なるほどに、物理においてもまた自から漠然たるの情あるが如し。

現代語訳

わが日本にもこの敵がなかったわけではありませんが、偶然の事情によって大きく趣を異にするところがありました。わが国では、鬼神や幽冥の妄説は、多くは仏者の預かるところとなって、もっぱら社会に流行しましたが、三百年来、儒者の道がようやく盛んになって仏者に対抗し、その対抗の余り、しきりに幽冥の説を論駁して、ついには自分たち固有の陰陽五行論をも口にすることを忌むに至りました。たとえば儒者が易経を講じても、ただその論理を講じるだけで、占いを弄ぶことを恥じるようです。その仏教を攻撃したのは、いわば儒者流の私情でしたが、この私的な議論の結果として惑溺を脱したのは、偶然の幸いというべきです。 中国の儒者も孔子・孟子の道を尊び、日本の儒者も孔子・孟子の書を読み、双方ともにその教えの源を同じくしていながら、その社会に広がった結果がまったく相反するのは、偶然でなくて何でしょうか。思うに、中国の儒教は敵がなかったためにその惑溺をたくましくし、日本の儒教は強敵に対して自ら戒めたのです。そのうえ、わが国の儒者はたいてい武人の家に生まれた者で、文雅風流の中におのずから快活の精神を保ち、よく子弟を教育してその気風を養い、全国の士族以上の者はみなこれに従わないことがありませんでした。改進の用意が十分に熟していたというべきです。」云々。 このように、わが国の上流社会の人は、根拠のない幽冥説に惑溺することは非常に少ないとはいえ、そのこれに惑溺しないのは、ただ一時、仏者に敵対する熱心に乗じたものであって、天然の真理原則を推究した知識の働きによるものではありません。そのため、幽冥説に対して淡白であるほどに、物理においても自ずから漠然とした気持ちのようです。

解説

福沢は、日本の儒者が仏教への対抗心から迷信を退けたのは偶然の幸いだと語りつつ、それは真理を探究した結果ではないので、物理への関心も薄いと指摘します。引用中の「支那」は当時の中国の呼称で、中国と日本の儒教を単純に対比する見方には当時の偏りが含まれ、今日の感覚と異なります。それでも、迷信を退けたことと、事実を探る姿勢は別だという指摘は鋭いものです。現代でも、非科学を避けることと、確かめる習慣は同じではありません。自分の判断が、確かめた結果か、ただの反発かを問う手がかりになります。

この章句が説くこと

幽冥説儒者仏者惑溺偶然の幸真理原則

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円 本を見る