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福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第15段

一国の政は正しく人民の智愚に応ずるものなれば、人力をもって容易に料理すべからず。さりとて、政府もまた、よく人智の進歩に着目して油断すべからざるなり。政府と学者と直接に相対すること、今日の如くしては際限あるべからず。ゆえに、たがいに相遠ざかりて、相近づくの法を求めざるべからず。離は合の術なり、遠は近の方便なりとの趣意にして、結局は政府と学者と直接の関係を止め、ともに高尚の域に昇りて永遠重大の喜憂をともにせんとするの旨を述べたるものなり。たとえばここに一軒の家あらん。楼下は陋しき一室にして、楼上には夥多の美室あり。地位職分を殊にする者が、この卑陋なる一室に雑居して苦々しき思をなさんより、高く楼に昇りてその室を分ち、おのおの当務の事を務むるはまた美ならずや。室を異にするも、家を異にするに非ず。居所高ければもって和すべく、居所卑ければ和すべからざるの異あるのみ。 末段にいたり、なお一章を附してこの編を終えん。すべて事物の緩急軽重とは相対したる意味にて、これよりも緩なり彼よりも急なりというまでのことなれば、時の事情によりて、緩といえば緩ならざるはなし、急といえば急ならざるはなし。この緩急軽重の判断にあたりては、もっとも心情の偏重によりて妨げらるるものなり。ゆえに今政府の事務を概して尋ぬれば、大となく小となく悉皆急ならざるはなしといえども、逐一その事の性質を詳にするときは、必ず大いに急ならざるものあらん。また、学者が新聞紙を読みて政を談ずるも、急といえば急なれども、なおこれよりも急にしてさらに重大なる事の箇条は枚挙にいとまあらざるべし。

書き下し

一国の政は正しく人民の智愚に応ずるものなれば、人力をもって容易に料理すべからず。さりとて、政府もまた、よく人智の進歩に着目して油断すべからざるなり。政府と学者と直接に相対すること、今日の如くしては際限あるべからず。ゆえに、たがいに相遠ざかりて、相近づくの法を求めざるべからず。離は合の術なり、遠は近の方便なりとの趣意にして、結局は政府と学者と直接の関係を止め、ともに高尚の域に昇りて永遠重大の喜憂をともにせんとするの旨を述べたるものなり。たとえばここに一軒の家あらん。楼下は陋しき一室にして、楼上には夥多の美室あり。地位職分を殊にする者が、この卑陋なる一室に雑居して苦々しき思をなさんより、高く楼に昇りてその室を分ち、おのおの当務の事を務むるはまた美ならずや。室を異にするも、家を異にするに非ず。居所高ければもって和すべく、居所卑ければ和すべからざるの異あるのみ。 末段にいたり、なお一章を附してこの編を終えん。すべて事物の緩急軽重とは相対したる意味にて、これよりも緩なり彼よりも急なりというまでのことなれば、時の事情によりて、緩といえば緩ならざるはなし、急といえば急ならざるはなし。この緩急軽重の判断にあたりては、もっとも心情の偏重によりて妨げらるるものなり。ゆえに今政府の事務を概して尋ぬれば、大となく小となく悉皆急ならざるはなしといえども、逐一その事の性質を詳にするときは、必ず大いに急ならざるものあらん。また、学者が新聞紙を読みて政を談ずるも、急といえば急なれども、なおこれよりも急にしてさらに重大なる事の箇条は枚挙にいとまあらざるべし。

現代語訳

一国の政は、まさに人民の智愚に応じるものですから、人の力で容易に料理することはできません。とはいえ、政府もまた、人智の進歩によく着目して、油断してはなりません。政府と学者が今日のように直接向き合っていては、きりがありません。ですから、互いに遠ざかって、近づく方法を求めなければなりません。離は合の術、遠は近の方便という趣旨で、結局、政府と学者が直接の関係をやめ、ともに高尚な領域に昇って、永遠で重大な喜びや憂いを分かち合おうとするのが、述べたかったことです。たとえばここに一軒の家があるとします。一階は粗末な一室で、二階には多くの立派な部屋があります。地位や職分の違う者が、この卑しい一室に雑居して苦々しい思いをするより、高く二階に昇って部屋を分け、それぞれ当面の務めに励むほうが、よいではありませんか。部屋を異にしても、家を異にするわけではありません。居場所が高ければ和することができ、居場所が低ければ和することができない、という違いがあるだけです。 最後に、さらに一章を加えてこの編を終えましょう。すべて物事の緩急軽重は相対的な意味で、これよりも緩い、あれよりも急だというだけのことで、時の事情によって、緩いといえば緩くないものはなく、急だといえば急でないものはありません。この緩急軽重の判断にあたっては、心情の偏りによって最も妨げられます。ですから、今、政府の事務を大づかみに尋ねれば、大小にかかわらず急でないものはありませんが、一つ一つその事の性質を詳しく見れば、必ず大いに急ではないものがあるでしょう。また、学者が新聞紙を読んで政を談じるのも、急といえば急ですが、これよりもさらに急で重大な事柄の箇条は、数えきれないほどあるでしょう。

解説

福沢は、一階の狭い一室に雑居せず、二階へ昇って部屋を分けるという建物のたとえで、離れて和す方法を語ります。居場所を高く保てば和し、低ければ和せない、という発想です。さらに緩急軽重は相対的で、心情の偏りによって判断が妨げられると説き、政治を談じることだけが急務ではないと指摘します。現代でも、優先順位を相対的に捉え直すことは、仕事の基本でしょう。『何が急で、何が重いのか』を問う手がかりとしてください。

この章句が説くこと

離は合の術遠は近の方便二階のたとえ高尚緩急軽重優先順位

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