福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第11段
一国の政治は、いかにもその人民の智愚に適するのみならず、またその性質にも適せざるべからず。然るに論者は性急にして、鏡に対して反射の醜なるを咎め、瓜に向いて茄子たらざるを怒り、その議論の極意を尋ぬれば、実物にかかわらずして反射の影を美ならしめ、瓜の蔓にも茄子を生ぜしむるの策ありと、公にこれを口に唱えざれば暗に自からこれを心の底に許すものの如し。余輩の考にては、この妙策に感服するを得ざるなり。 然りといえども、また一方より論ずれば、人民の智力発達するにしたがいてその権力を増すもまた当然の理なり。而してその智力は権衡もって量るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難し。家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附の到来したる例は、世間に珍しからず。 人の智恵は、善悪にかかわらず、思のほかに成長するものなり。油断大敵、用心せざるべからず。ゆえにかの瓜の蔓も、いつの間にかは変性して、やや茄子の木の形をなしたるに、瓜はいぜんとして瓜たることもあらん。あるいは阿多福が思をこらして容を装うたるに、有心の鏡はその装を写さずして、旧の醜容を反射することあらば、阿多福もまた不平ならざるをえず。また、政府は人民の反射なりというといえども、その反射は必ずしも今日の実物を今日に反射するに非ず。人心変動の沿革にしたがいて、その大勢の真形を反射せざるべからず。あるいはまた、その反射するにあたりて、実物のこの一方に対しては真形を写すべけれども、かの一方の真をば写すべからざることもあらん。然るときは、その二物の軽重緩急を察して、まず重大にして急なるものを写さざるべからず。 されば今の日本政府も、何等の大勢を写し出すものか、何物の真形を反射するものか、これを反射して真を誤らざるものか、無偏無党の平心をもってこれを察するは至難の事というべし。また、事を施行するにあたりて、その成跡はつねに意外に出で、求むるものを得ずして求めざるものを得ること多し。
書き下し
一国の政治は、いかにもその人民の智愚に適するのみならず、またその性質にも適せざるべからず。然るに論者は性急にして、鏡に対して反射の醜なるを咎め、瓜に向いて茄子たらざるを怒り、その議論の極意を尋ぬれば、実物にかかわらずして反射の影を美ならしめ、瓜の蔓にも茄子を生ぜしむるの策ありと、公にこれを口に唱えざれば暗に自からこれを心の底に許すものの如し。余輩の考にては、この妙策に感服するを得ざるなり。 然りといえども、また一方より論ずれば、人民の智力発達するにしたがいてその権力を増すもまた当然の理なり。而してその智力は権衡もって量るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難し。家厳が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命これしたがう、この子は未だ鳥目の勘定だも知らずなどと、陽に憂てその実は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附の到来したる例は、世間に珍しからず。 人の智恵は、善悪にかかわらず、思のほかに成長するものなり。油断大敵、用心せざるべからず。ゆえにかの瓜の蔓も、いつの間にかは変性して、やや茄子の木の形をなしたるに、瓜はいぜんとして瓜たることもあらん。あるいは阿多福が思をこらして容を装うたるに、有心の鏡はその装を写さずして、旧の醜容を反射することあらば、阿多福もまた不平ならざるをえず。また、政府は人民の反射なりというといえども、その反射は必ずしも今日の実物を今日に反射するに非ず。人心変動の沿革にしたがいて、その大勢の真形を反射せざるべからず。あるいはまた、その反射するにあたりて、実物のこの一方に対しては真形を写すべけれども、かの一方の真をば写すべからざることもあらん。然るときは、その二物の軽重緩急を察して、まず重大にして急なるものを写さざるべからず。 されば今の日本政府も、何等の大勢を写し出すものか、何物の真形を反射するものか、これを反射して真を誤らざるものか、無偏無党の平心をもってこれを察するは至難の事というべし。また、事を施行するにあたりて、その成跡はつねに意外に出で、求むるものを得ずして求めざるものを得ること多し。
現代語訳
一国の政治は、その人民の知恵や愚かさに適しているだけでなく、その性質にも適していなければなりません。ところが論者は性急で、鏡に向かって映った姿の醜さを責め、瓜に向かって茄子にならないことを怒り、その議論の極意を尋ねると、実物にはかまわずに映った影を美しくしようとし、瓜の蔓にも茄子を実らせる策があるといいます。公然と口に出さなくても、ひそかに心の底ではこれを認めているかのようです。私の考えでは、この妙策に感服することはできません。 しかし、また別の面から論じれば、人民の知力が発達するにしたがって、その権力が増すのも当然の道理です。そしてその知力は秤で量れるものではないので、その増減を察することは非常に難しい。父が力を尽くして育てた息子は、まじめ一辺倒で、ただ言いつけに従うだけ、この子はまだ銭の勘定すら知らない、などと表向きは心配しながら、実は得意話の最中に、若旦那の勘定だといって、遊郭から請求書が届く例は、世間に珍しくありません。 人の知恵は、善悪にかかわらず、思いのほか成長するものです。油断大敵、用心しなければなりません。ですから、あの瓜の蔓も、いつの間にか性質が変わって、やや茄子の木の形になったのに、瓜は依然として瓜のままであることもあるでしょう。あるいはおたふくが工夫をこらして姿を装ったのに、気の利かない鏡はその装いを映さず、元の醜い姿を反射するなら、おたふくもまた不満を抱かざるをえません。また、政府は人民の反射だといっても、その反射は必ずしも今日の実物を今日に反射するわけではありません。人心の移り変わりの経過に従って、その大勢の真の姿を反射しなければなりません。あるいはまた、反射するにあたって、実物のこの一方については真の姿を映せても、あの一方の真を映せないこともあるでしょう。そうであれば、その二物の軽重や緩急を察して、まず重大で急なものを映さなければなりません。 ですから、今の日本政府も、どんな大勢を映し出すものか、何物の真の姿を反射するものか、それを反射して真を誤らないものか、偏りも党派もない平らな心でこれを察することは、至難のことというべきです。また、事を実行するにあたって、その成果はつねに意外に出て、求めるものを得ずに、求めないものを得ることが多いのです。
解説
この章句が説くこと
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老子・第50章生に出でて死に入る。生の徒は十に三有り、死の徒は十に三有り、人の生きて之を死地に動かすも亦た十に三有り。夫れ何の故ぞ。其の生を生とすることの厚きを以てなり。蓋し聞く、善く生を摂する者は、陸行して兕虎に遇わず、軍に入りて甲兵を被らず。兕は其の角を投ずる所無く、虎は其の爪を措く所無く、兵は其の刃を容るる所無し。夫れ何の故ぞ。其の死地無きを以てなり。
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『驢鞍橋』卷上一日謂衆曰く、其方達此前に合せては、世間を分別する事如何程薄く成りたるや、誠に目出度善根を持ち来れり。乍去如何程使ひ得んや、心元なしと也。
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