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福沢諭吉小品集 / 学者安心論・第12段

数年前英国にて下院を改革し、下等の人民までも議院の事に参与するの法を定めたりしに、その時にあたりて識者の考に、今後議院の権は役夫・職人の手に帰し、あるいは害あるべしといい、あるいは益あるべしといい、議論喋々たりしが、その成跡を見れば、いずれも無益の取越し苦労なり。改革の後も役夫・職人の輩はただちに国事にかかわることなく、議員の種族はいぜんたる旧の議員にして、ただこの改革ありしがために、早くすでに議員に戒心を抱かしめ、期せずしておのずから下等の人民を利したりという。 ゆえに政府たる者が人民の権を認むると否とに際して、その加減の難きは、医師の匕の類に非ず、これを想い、またこれを思い、ただに三思のみならず、三百思もなお足るべからずといえども、その細目の適宜を得んとするは、とうてい人智の及ぶところに非ざれば、大体の定則として政府と人民と相分れ、直接の関係をやめて間接に相交わるの一法あるのみ。 人あるいはこの説を聞き、政府と人民と相遠ざかることあらば、気脈を通ぜずして、必ず不和を生ぜんという者あるべしといえども、ひっきょう、未だ思わざるの論のみ。余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬してこれを遠ざくるの義にも非ず。遠ざかるは近づくの術なり、離るるは合するの方便なり。近くその例を示さん。他人の同居して不和なる者、別宅して相親しむべし。他人のみならず、親子兄弟といえども、二、三の夫婦が一家に眠食して、よくその親愛をまっとうしたるの例は、世間にはなはだ稀なり。

書き下し

数年前英国にて下院を改革し、下等の人民までも議院の事に参与するの法を定めたりしに、その時にあたりて識者の考に、今後議院の権は役夫・職人の手に帰し、あるいは害あるべしといい、あるいは益あるべしといい、議論喋々たりしが、その成跡を見れば、いずれも無益の取越し苦労なり。改革の後も役夫・職人の輩はただちに国事にかかわることなく、議員の種族はいぜんたる旧の議員にして、ただこの改革ありしがために、早くすでに議員に戒心を抱かしめ、期せずしておのずから下等の人民を利したりという。 ゆえに政府たる者が人民の権を認むると否とに際して、その加減の難きは、医師の匕の類に非ず、これを想い、またこれを思い、ただに三思のみならず、三百思もなお足るべからずといえども、その細目の適宜を得んとするは、とうてい人智の及ぶところに非ざれば、大体の定則として政府と人民と相分れ、直接の関係をやめて間接に相交わるの一法あるのみ。 人あるいはこの説を聞き、政府と人民と相遠ざかることあらば、気脈を通ぜずして、必ず不和を生ぜんという者あるべしといえども、ひっきょう、未だ思わざるの論のみ。余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬してこれを遠ざくるの義にも非ず。遠ざかるは近づくの術なり、離るるは合するの方便なり。近くその例を示さん。他人の同居して不和なる者、別宅して相親しむべし。他人のみならず、親子兄弟といえども、二、三の夫婦が一家に眠食して、よくその親愛をまっとうしたるの例は、世間にはなはだ稀なり。

現代語訳

数年前、英国で下院を改革し、下等の人民まで議院の事に参与できる法を定めたとき、識者の考えでは、今後議院の権は役夫や職人の手に帰するだろう、害があるという者もあれば益があるという者もあって、議論がかしましかったのですが、その成果を見ると、いずれも無益な取り越し苦労でした。改革の後も、役夫や職人の連中は直ちに国事に関わるわけではなく、議員の種族は依然として元の議員で、ただこの改革があったために、早くも議員に警戒心を抱かせ、期せずして自然に下等の人民を利したということです。 ですから、政府が人民の権利を認めるか否かに際して、その加減の難しさは、医者の匙加減の比ではありません。これを想い、またこれを思い、三たび考えるだけでなく三百回考えてもなお足りないでしょうが、その細目を適切にしようとするのは、とうてい人の知恵の及ぶところではありません。ですから大体の定則としては、政府と人民が分かれ、直接の関係をやめて、間接に交わる一つの方法があるだけです。 人はこの説を聞いて、政府と人民が互いに遠ざかれば、気脈が通じず、必ず不和を生じると言うかもしれませんが、結局のところ、まだ考えが及ばない議論です。私のいう遠ざかるとは、互いに遠く隔てて敵視することではなく、また敬ってこれを遠ざけるという意味でもありません。遠ざかるのは近づく術であり、離れるのは合する方便です。近い例を示しましょう。他人が同居して不和なら、別の家に住めば親しくなれます。他人だけではなく、親子や兄弟でも、二、三組の夫婦が一つの家で寝食を共にして、よくその親愛を全うした例は、世間に非常にまれです。

解説

英国の下院改革は、識者が心配したほど急変せず、議員が自然に下層への配慮を強めたという例です。福沢はそこから、人民の権利の加減は人智の及ばない難事であり、大きな原則として政府と人民は直接の関係をやめ、間接に交わるのがよいと論じます。『離は合の術』という逆説が中心です。現代でも、距離を保つほうが関係が長続きする場面は多くあります。同居する夫婦の例は、当時の家族観を反映した表現です。

この章句が説くこと

英国の下院改革取り越し苦労間接遠ざかる離は合の術同居

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