福沢諭吉小品集 / 旧藩情・第7段
廃藩の後、藩士の所得大に減ずるとは、常禄の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来度々の改革にて藩士の禄を削り、その割合を古に比すればすでに大に減禄したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜にしたるが故に、諸藩に普通なる家禄平均の災を免がれたるなり。然りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚だ大なり。中津藩歳入の正味はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。 この公用とは所謂公儀(幕府のことなり)の御勤、江戸藩邸の諸入費、藩債の利子、国邑にては武備城普請、在方の橋梁、堤防、貧民の救済手当、藩士文武の引立等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実は然らず。譬えば江戸汐留の藩邸を上屋舗と唱え、広さ一万坪余、周囲およそ五百間もあらん。類焼の跡にてその灰を掻き、仮に松板を以て高さ二間許りに五百間の外囲をなすに、天保時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請といい買物といい、また払物といい、経済の不始末は諸藩同様、枚挙に遑あらず。もとより江戸の町人職人の金儲なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑たらざるを得ず。また国邑にて文武の引立といえば、藩士の面々は書籍も拝借、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足拝借金歟、または下だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂の沙汰は稀なれども、自から役徳なるものあり。江戸大阪の勤番より携帰る土産の品は、旅費の残にあらざれば所謂役徳を積たるものより外ならず。
書き下し
廃藩の後、藩士の所得大に減ずるとは、常禄の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来度々の改革にて藩士の禄を削り、その割合を古に比すればすでに大に減禄したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜にしたるが故に、諸藩に普通なる家禄平均の災を免がれたるなり。然りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚だ大なり。中津藩歳入の正味はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。 この公用とは所謂公儀(幕府のことなり)の御勤、江戸藩邸の諸入費、藩債の利子、国邑にては武備城普請、在方の橋梁、堤防、貧民の救済手当、藩士文武の引立等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実は然らず。譬えば江戸汐留の藩邸を上屋舗と唱え、広さ一万坪余、周囲およそ五百間もあらん。類焼の跡にてその灰を掻き、仮に松板を以て高さ二間許りに五百間の外囲をなすに、天保時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請といい買物といい、また払物といい、経済の不始末は諸藩同様、枚挙に遑あらず。もとより江戸の町人職人の金儲なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑たらざるを得ず。また国邑にて文武の引立といえば、藩士の面々は書籍も拝借、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足拝借金歟、または下だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂の沙汰は稀なれども、自から役徳なるものあり。江戸大阪の勤番より携帰る土産の品は、旅費の残にあらざれば所謂役徳を積たるものより外ならず。
現代語訳
廃藩の後に藩士の所得が大きく減ったというのは、常禄の額が減ったことをいうのではありません。中津藩は古来たびたびの改革で藩士の禄を削り、その割合を古くに比べればすでに大いに減禄したようになっていたため、維新の後も、諸藩と同様にさらに減らすことを唱えにくい事情があり、さらに当時流行の有志者が藩政を専らにすることなく、実際には禄を重んじる種族が禄制を適宜に定めたので、諸藩に共通の家禄平均の災いを免れました。しかし常禄のほかに所得が減ったものもまた非常に大きいのです。中津藩の歳入の正味はおよそ米にして五万石余で、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余にすぎず、残りのおよそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものでした。 この公用とは、いわゆる公儀(幕府のことです)への勤め、江戸藩邸の諸費用、藩債の利子、国元では武備や城の普請、地方の橋梁や堤防、貧民の救済手当、藩士の文武の引き立てなどです。名目は藩士の所得に関係ないようですが、実際はそうではありません。たとえば江戸汐留の藩邸を上屋敷といい、広さ一万坪余り、周囲はおよそ五百間もあるでしょう。類焼の跡でその灰を掻き、仮に松板で高さ二間ばかりの五百間の外囲いを作るのに、天保時代の金でおよそ三千両かかったといいます。このほか、平日でも普請といい買物といい、また払物といい、経済の不始末は諸藩と同様で、数えれば枚挙にいとまがありません。もとより江戸の町人や職人の金儲けですが、その一部分は間接的に藩中一般の賑わいにならざるをえません。また国元で文武の引き立てといえば、藩士はそれぞれ書籍も拝借でき、馬も鉄砲も拝借できます。借用の品を用いて月謝のない教師に就くのも、また大きな便利です。なかんずく役人の旅費や、藩士一般への無利息の拝借金、または下し切りの金のようなものは、現に常禄のほかの直接の所得というべきです。また藩の諸役所で公然たる賄賂の話は稀ですが、自然と役徳というものがあります。江戸や大阪の勤番から持ち帰る土産の品は、旅費の残りでなければ、いわゆる役徳を積んだもの以外ではありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第8段俗官汚吏はしばらく擱き、品行正雅の士といえども、この徳沢の範囲を脱せんとするも、実際においてほとんど能すべからざることなり。藩にて廉潔の役人と称し、賄賂役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自からこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利にて金を貸し、または態と高利にてその金を預り、または元値を損して安物を売る等、様々の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識らずして賄賂の甘き穽に陥らざるを得ず。蓋し人として理財商売の考あらざれば、到底その品行を全うすること能わざるものなり。以上枚挙の件々はいずれも皆藩士常禄の他に得るところのものなれども、今日に至てはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫する一の原因なり。 第六、上士族は大抵婢僕を使用す。たといこれなきも、主人は勿論、子弟たりとも、自から町に行て物を買う者なし。町の銭湯に入る者なし。戸外に出れば袴を着けて双刀を帯す。夜行は必ず提灯を携え、甚しきは月夜にもこれを携る者あり。なお古風なるは、婦女子の夜行に重大なる箱提灯を僕に持たする者もあり。外に出でて物を買うを賤しむがごとく、物を持つもまた不外聞と思い、剣術道具釣竿の外は、些細の風呂敷包にても手に携うることなし。 下士はよき役を勤て兼て家族の多勢なる家に非ざれば、婢僕を使わず。昼間は町に出でて物を買う者少なけれども、夜は男女の別なく町に出るを常とす。男子は手拭を以て頬冠りし、双刀を帯する者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処の歩行なれば双刀は帯すれども袴を着けず、隣家の往来などには丸腰(無刀のこと)なるもあり。また宴席、酒酣なるときなどにも、上士が拳を打ち歌舞するは極て稀なれども、下士は各隠し芸なるものを奏して興を助る者多し。これを概するに、上士の風は正雅にして迂闊、下士の風は俚賤にして活溌なる者というべし。その風俗を異にするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。 上士 下士 商 農 見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第10段中津の藩政も他藩のごとく専ら分を守らしむるの趣意にして、圧制を旨とし、その精密なることほとんど至らざるところなし。而してその政権はもとより上士に帰することなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀会計のことに至ては上士の短所なるを以て、名は役頭または奉行などと称すれども、下役なる下士のために籠絡せらるる者多し。故に上士の常に心を関するところは、尊卑階級のことに在り。この一事においては、往々事情に適せずして有害無益なるものあり。誓えば藩政の改革とて、藩士一般に倹約を命ずることあり。この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を許すなどと命を出すゆえ、その命令は一藩経済のため歟、衣冠制度のため歟、両様混雑して分明ならず。恰も倹約の幸便に格式りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱き、到底倹約の永久したることなし。 また今を去ること三十余年、固め番とて非役の徒士に城門の番を命じたることあり。この門番は旧来足軽の職分たりしを、要路の者の考に、足軽は煩務にして徒士は無事なるゆえ、これを代用すべしといい、この考と、また一方には上士と下士との分界をなお明にして下士の首を押えんとの考を交え、その実はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛にするにもあらず、ただ一事無益の好事を企てたるのみ。この一条については下士の議論沸騰したれども、その首魁たる者二、三名の家禄を没入し、これを藩地外に放逐して鎮静を致したり。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第13段この事情に従て維新の際に至り、ますます下士族の権力を逞うすることあらば、或は人物を黜陟し或は禄制を変革し、なお甚しきは所謂要路の因循吏を殺して、当時流行の青面書生が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋し、また謂れなきに非ず。下等士族の輩が、数年以来教育に心を用るといえども、その教育は悉皆上等士族の風を真似たるものなれば、もとよりその範囲を脱すること能わず。剣術の巧拙を争わん歟、上士の内に剣客甚だ多くして毫も下士の侮を取らず。漢学の深浅を論ぜん歟、下士の勤学は日浅くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。 また下士の内に少しく和学を研究し水戸の学流を悦ぶ者あれども、田舎の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出ること少なく他藩人に交ること稀なるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視して憚るところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚てこれを実地に活用すること能わず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥なり、おおよそ一様同等にして抜群の巨魁なきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県の時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事静穏なりし由縁なり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾することあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然らざるは、これを偶然の幸福、因循の賜というべし。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第4段これ等の件々は逐一計うるに暇あらず。到底上下両等の士族は各その等類の内に些少の分別ありといえども、動かすべからざるものに非ず。独り上等と下等との大分界に至ては、ほとんど人為のものとは思われず、天然の定則のごとくにして、これを怪しむ者あることなし。(権利を異にす) 第二、上等士族を給人と称し、下等士族を徒士または小役人といい、給人以上と徒士以下とは何等の事情あるも縁組したることなし。この縁組は藩法においても風俗においても共に許さざるところなり。啻に表向の縁組のみならず、古来士族中にて和姦の醜聞ありし者を尋るに、上下の士族各その等類中に限り、各等の男女が互に通じたる者ははなはだ稀なり。(ただし日本士族の風俗は最も美にして、和姦などの沙汰は極めて稀に聞くところなり。中津藩士ももとより同様なれども、ここにはただ事実の例を示さんがために、その稀に有る者の数を比較したるのみ。) かつ限ある士族の内にて互に縁組することなれば、縁に縁を重ねて、二、三百年以来今日に至ては、士族はただ同藩の好あるのみならず、現に骨肉の親族にして、その好情の篤きはもとより論を俟たず。然るに今日、試に士族の系図を開てこれを見れば、古来上下の両等が父祖を共にしたる者なし、祖先の口碑を共にしたる者なし。恰も一藩中に人種の異なる者というも可なり。故にこの両等は藩を同うし君を共にするの交誼ありて骨肉の親情なき者なり。(骨肉の縁を異にす) 第三、上等士族の内にも家禄にはもとより大なる差ありて、大臣は千石、二千石、なおこれより以上なる者もあり。上等の最下、小姓組、医師のごときは、十人扶持より少なき者もあれども、これを概するに百石二百石或は二百五十石と唱えて、正味二十二、三石より四十石乃至五、六十石の者最も多し。藩にて要路に立つ役人は、多くはこの百石(名目のみ)以上の家に限るを例とす。藩にて正味二、三十石以上の米あれば、尋常の家族にて衣食に差支あることなく、子弟にも相当の教育を施すべし。
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第2段余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望すること切なれども、誰に向てその利害を説くべき路を知らず。故に今この冊子を記して、幸に華族その他有志者の目に触れ、為に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚というべきのみ。 一、維新の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人の目撃するところにして、これを記すはほとんど無益なるに似たれども、光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。故にこの冊子、たとい今日に陳腐なるも、五十年の後には却て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。 明治十年五月三十日 福沢諭吉 記 旧藩情 旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓(旧厩格)供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明に上下両等の間に分界を画すべき事実あり。すなわちその事実とは、
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福沢諭吉小品集・旧藩情・第1段旧藩情緒言 一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を与にすといえども、動もすれば自から運動の遅速方向に心付かざること多し。ただ岸上より望観する者にして始てその精密なる趣を知るべし。中津の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居てかえって自からその動くところの趣に心付かず、不知不識以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊かその望観のままを記したるのみ。 一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態を記したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士と下士との軋轢あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害栄辱を与にして、公共のためを謀る者あるを聞かず。故に世上有志の士君子が、その郷里の事態を憂てこれが処置を工夫するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。 一、旧藩地に私立の学校を設るは余輩の多年企望するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄と旧官員の周旋とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡を以て見れば未だ失望の箇条もなく、先ず費したる財と労とに報る丈けの功をば奏したるものというべし。蓋し廃藩以来、士民が適として帰するところを失い、或はこれがためその品行を破て自暴自棄の境界にも陥るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立の景影だにも論ずべき場所として学校の設あれば、その状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明を取るに足らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。
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