導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

福沢諭吉小品集 / 学問の独立・第8段

たとえば政府の当局者が、貿易の振わずして一両年間輸出入の不平均なるを憂い、これは我が国人が殖産工商の道に迂闊なるがゆえなり、工業起さざるべからず、商法講ぜざるべからずとて、しきりにこれを奨励して、後進の青年を商工の一方に教育せんとするその最中に、外国政治上の報告を聞けば、近来はなはだ穏ならず、欧洲各国の形勢云々なるのみならず、近く隣国の支那において、大臣某氏が政権をとりて、その政略はかくの如し、あるいは東洋全面の風波も計るべからず、不虞に予備するは廟算の極意にして、目下の急は武備を拡張して士気を振起するにあり、学校教育の風も文弱に流れずして尚武の気を奨励するこそ大切なれとて、その針路に向うときは、さきに工芸商法を講習してまさに殖産の道を学ばんとしたる学生も、たちまち経済書を廃して兵書を読み、筆を投じて戎軒を事とするの念を発すべし。 少年の心事、その軟弱なること杞柳の如く、他の指示するところにしたがいて変化すること、はなはだやすし。而してその指示の原因はいずれよりすと尋ぬるに、一両年間、貿易輸出入の不平均か、もしくは隣国一大臣の進退にすぎず。内国貿易の景況、隣国交際の政略、当局の政治家においては実に大切にして等閑に附すべからざるものなれども、これがために所期百年の教育上に影響を及ぼすとは憐むべき次第ならずや。かく政治と学問と密着するときは、甲者の変勢にさいして常に乙者の動揺を生じ、その変いよいよはなはだしければその余波もまた、いよいよ劇なり。 ここに一例をあぐれば、旧幕府の時代、江戸に開成学校なるものを設立して学生を教育し、その組織ずいぶん盛大なるものにして、あたかも日本国中洋学の中心とも称すべき姿なりしが、一朝幕政府の顛覆に際して、生徒教員もたちまち四方に散じて行くところを知らず、東征の王師、必ずしも開成校を敵としてこれを滅さんとするの意もなかりしことならんといえども、学者の輩がかくも狼狽して、一朝にして一大学校を空了して、日本国の洋学が幕府とともに廃滅したるは何ぞや。開成校は幕政府中の学校にして、時の政治に密着したるがゆえなり。

書き下し

たとえば政府の当局者が、貿易の振わずして一両年間輸出入の不平均なるを憂い、これは我が国人が殖産工商の道に迂闊なるがゆえなり、工業起さざるべからず、商法講ぜざるべからずとて、しきりにこれを奨励して、後進の青年を商工の一方に教育せんとするその最中に、外国政治上の報告を聞けば、近来はなはだ穏ならず、欧洲各国の形勢云々なるのみならず、近く隣国の支那において、大臣某氏が政権をとりて、その政略はかくの如し、あるいは東洋全面の風波も計るべからず、不虞に予備するは廟算の極意にして、目下の急は武備を拡張して士気を振起するにあり、学校教育の風も文弱に流れずして尚武の気を奨励するこそ大切なれとて、その針路に向うときは、さきに工芸商法を講習してまさに殖産の道を学ばんとしたる学生も、たちまち経済書を廃して兵書を読み、筆を投じて戎軒を事とするの念を発すべし。 少年の心事、その軟弱なること杞柳の如く、他の指示するところにしたがいて変化すること、はなはだやすし。而してその指示の原因はいずれよりすと尋ぬるに、一両年間、貿易輸出入の不平均か、もしくは隣国一大臣の進退にすぎず。内国貿易の景況、隣国交際の政略、当局の政治家においては実に大切にして等閑に附すべからざるものなれども、これがために所期百年の教育上に影響を及ぼすとは憐むべき次第ならずや。かく政治と学問と密着するときは、甲者の変勢にさいして常に乙者の動揺を生じ、その変いよいよはなはだしければその余波もまた、いよいよ劇なり。 ここに一例をあぐれば、旧幕府の時代、江戸に開成学校なるものを設立して学生を教育し、その組織ずいぶん盛大なるものにして、あたかも日本国中洋学の中心とも称すべき姿なりしが、一朝幕政府の顛覆に際して、生徒教員もたちまち四方に散じて行くところを知らず、東征の王師、必ずしも開成校を敵としてこれを滅さんとするの意もなかりしことならんといえども、学者の輩がかくも狼狽して、一朝にして一大学校を空了して、日本国の洋学が幕府とともに廃滅したるは何ぞや。開成校は幕政府中の学校にして、時の政治に密着したるがゆえなり。

現代語訳

たとえば政府の当局者が、貿易が振るわず一、二年の間輸出入が不均衡であることを憂い、これはわが国民が産業と商工の道に疎いからだ、工業を起こさなければならない、商法を講じなければならないと、さかんに奨励して、若い青年を商工の方面に教育しようとしているその最中に、外国の政治の報告を聞くと、近ごろは穏やかでなく、ヨーロッパ各国の形勢はこうである、さらに近くの隣国の中国で、ある大臣が政権をとり、その政略はこうだ、あるいは東洋全体に風波が起こるかもしれない、不測の事態に備えるのが政略の極意であり、目下の急務は軍備を拡張して士気を奮い起こすことにあり、学校教育の風も文弱に流れず、尚武の気を奨励することが大切だとして、その針路に向かうとき、先に工芸や商法を学び産業の道を修めようとしていた学生も、たちまち経済書を捨てて兵書を読み、筆を投げうって軍事の念を起こすでしょう。 少年の心は、その柔らかさが柳の枝のようで、他人の指図するところにしたがって変化することがとてもたやすいものです。そしてその指図の原因はどこからかと尋ねると、一、二年の間の貿易の輸出入の不均衡か、あるいは隣国の一大臣の進退にすぎません。国内貿易の景況や隣国との交際の政略は、当局の政治家にとっては実に大切でおろそかにできないものですが、そのために百年を見据えた教育に影響が及ぶとは、あわれなことではありませんか。このように政治と学問が密着すると、一方の変化のたびに他方の動揺を生じ、その変化がはなはだしいほど、その余波もまた、いっそう激しくなります。 ここに一例を挙げると、旧幕府の時代に、江戸に開成学校というものを設立して学生を教育し、その組織はなかなか盛大で、日本中の洋学の中心ともいえる姿でしたが、一朝にして幕府政権が倒れるに際し、生徒も教員もたちまち四方に散ってどこへ行ったか分からなくなりました。東征の官軍も、必ずしも開成校を敵として滅ぼそうという意志はなかったでしょうに、学者たちがこれほど狼狽して、一朝にして一大学校を空にし、日本の洋学が幕府とともに滅びたのはなぜでしょう。開成校は幕府政府の中の学校であり、当時の政治に密着していたからです。

解説

経済政策が変わるたびに、教える内容や若者の進路まで引きずられる例を挙げ、教育は百年を見据えるものだと訴えます。さらに開成所が幕府とともに崩れた史実で、政治に密着した機関の脆さを示します。短期の情勢で長期の育成方針が揺らぐ問題は、現代の会社の人材育成にも当てはまります。『支那』は当時の中国の呼称で、今日の感覚とは異なります。一つの比喩として、変化に弱い組織の姿を描いたものと読めます。

この章句が説くこと

貿易と軍備少年の心は柳百年の教育開成学校幕府の顛覆政治への密着

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円 本を見る