福翁自伝 / 老余の半生・時事新報
ソレから明治十五年に時事新報と云う新聞紙を発起しました。丁度十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻りにこの事を勧める。私も亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互に敵味方が出来て議論は次第に喧しくなるに違いない。既に前年の政変も孰れが是か非かソレは差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\甚だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂不偏不党の説であるが、扨その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に聊かながら独立の生計を成して多少の文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして恰も物外に超然たる者は、※呼がましくも自分の外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂に決心して新事業に着手したものが即ち時事新報です。既に決断した上は友人中これを止める者もありしが、一切取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て、世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣て来たことですが、畢竟私の安心決定とは申しながら、その実は私の朋友には正直有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云う忌な心配は聊かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎が引受け、その後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎が之に任じ、会計は本山彦一、次で坂田実、今は戸張志智之助等が専ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を聞たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて置て、曾て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する訳けでしょう。又編輯の方に就て申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨その相手の人に面会したとき自分の良心に愧じて率直に陳べることの叶わぬ事を書て居ながら、遠方から知らぬ風をして恰も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と為り、罵言讒謗の毒筆と為る、君子の愧ずべき所なりと常に警しめて居ます。併し私も次第に年をとり、何時までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る丈け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます。
新字:ソレから明治十五年に時事新報と云う新聞紙を発起しました。丁度十四年政府変動の後で、慶応義塾先進の人達が私方に来て頻りにこの事を勧める。私も亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互に敵味方が出来て議論は次第に喧しくなるに違いない。既に前年の政変も孰れが是か非かソレは差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\甚だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂不偏不党の説であるが、扨その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に聊かながら独立の生計を成して多少の文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして恰も物外に超然たる者は、※呼がましくも自分の外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂に決心して新事業に着手したものが即ち時事新報です。既に決断した上は友人中これを止める者もありしが、一切取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て、世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣て来たことですが、畢竟私の安心決定とは申しながら、その実は私の朋友には正直有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云う忌な心配は聊かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎が引受け、その後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎が之に任じ、会計は本山彦一、次で坂田実、今は戸張志智之助等が専ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を聞たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて置て、曽て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する訳けでしょう。又編輯の方に就て申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨その相手の人に面会したとき自分の良心に愧じて率直に陳べることの叶わぬ事を書て居ながら、遠方から知らぬ風をして恰も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と為り、罵言讒謗の毒筆と為る、君子の愧ずべき所なりと常に警しめて居ます。併し私も次第に年をとり、何時までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る丈け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます。
書き下し
ソレから明治十五年に時事新報と云う新聞紙を発起しました。丁度十四年政府変動の後で、慶應義塾先進の人達が私方に来て頻りにこの事を勧める。私も亦自分で考えて見るに、世の中の形勢は次第に変化して、政治の事も商売の事も日々夜々運動の最中、相互に敵味方が出来て議論は次第に喧しくなるに違いない。既に前年の政変も孰れが是か非かソレは差置き、双方主義の相違で喧嘩をしたことである。政治上に喧嘩が起れば経済商売上にも同様の事が起らねばならぬ。今後はいよ/\ます/\甚だしい事になるであろう。この時に当て必要なるは所謂不偏不党の説であるが、扨その不偏不党とは口でこそ言え、口に言いながら心に偏する所があって一身の利害に引かれては迚も公平の説を立てる事が出来ない。ソコで今全国中に聊かながら独立の生計を成して多少の文思もありながら、その身は政治上にも商売上にも野心なくして恰も物外に超然たる者は、※呼がましくも自分の外に適当の人物が少なかろうと心の中に自問自答して、遂に決心して新事業に着手したものが即ち時事新報です。既に決断した上は友人中これを止める者もありしが、一切取合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと他人の世話になろうと思わず、この事を起すも自力なれば倒すも自力なり、仮令い失敗して廃刊しても一身一家の生計を変ずるに非ず、又自分の不名誉とも思わず、起すと同時に倒すの覚悟を以て、世間の風潮に頓着なしに今日までも首尾能く遣て来たことですが、畢竟私の安心決定とは申しながら、その実は私の朋友には正直有為の君子が多くて、何事を打任せても間違いなど云う忌な心配は聊かもない。発行の当分、何年の間は中上川彦次郎が引受け、その後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎が之に任じ、会計は本山彦一、次で坂田実、今は戸張志智之助等が専ら担任して居ますが、私の性質として金銭出納の細目を聞たこともなく、見たこともなく、その人々のするがまゝに任かせて置て、曾て一度も変な間違いの出来たことはない。誠に安心気楽なものです。コンな事が新聞事業の永続する訳けでしょう。又編輯の方に就て申せば、私の持論に、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべし、他人の事を論じ他人の身を評するには、自分とその人と両々相対して直接に語られるような事に限りて、それ以外に逸すべからず、如何なる劇論、如何なる大言壮語も苦しからねど、新聞紙に之を記すのみにて、扨その相手の人に面会したとき自分の良心に愧じて率直に陳べることの叶わぬ事を書て居ながら、遠方から知らぬ風をして恰も逃げて廻わるようなものは、之を名づけて蔭弁慶の筆と云う、その蔭弁慶こそ無責任の空論と為り、罵言讒謗の毒筆と為る、君子の愧ずべき所なりと常に警しめて居ます。併し私も次第に年をとり、何時までもコンな事に勉強するでもなし、老余は成る丈け閑静に日を送る積りで、新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます。
現代語訳
それから明治十五年に、時事新報という新聞紙を発起しました。ちょうど十四年の政府の変動の後で、慶應義塾の先輩たちが私のところに来て、しきりにこの事を勧めます。私も自分で考えてみると、世の中の形勢は次第に変化し、政治のことも商売のことも日々夜々運動の最中で、互いに敵味方ができて議論は次第にやかましくなるに違いありません。すでに前年の政変も、どちらが是でどちらが非かはさておき、双方の主義の違いで喧嘩をしたことです。政治の上で喧嘩が起これば、経済や商売の上にも同様のことが起こるに違いなく、今後はいよいよますます甚だしいことになるでしょう。この時に当たって必要なのは、いわゆる不偏不党の説ですが、さてその不偏不党とは口では言えても、口で言いながら心に偏るところがあって、一身の利害に引かれては、とても公平な説を立てることができません。そこで今、全国中に、わずかながら独立の生計を成し、多少の文筆の素養もありながら、その身は政治の上にも商売の上にも野心がなく、あたかも世俗の外に超然としている者は、おこがましくも自分のほかに適当な人物が少なかろうと、心の中で自問自答して、ついに決心して新事業に着手したものが、すなわち時事新報です。 すでに決断した以上は、友人の中にこれを止める者もありましたが、一切取り合わず、新聞紙の発売数が多かろうと少なかろうと、他人の世話になろうとは思わず、この事業を起こすのも自力なら倒すのも自力、たとえ失敗して廃刊しても、一身一家の生計が変わるわけではなく、自分の不名誉とも思わず、起こすと同時に倒す覚悟で、世間の風潮に頓着なく今日まで首尾よくやってきたことですが、結局は私の心の定めとはいいながら、その実、私の友人には正直で有為な君子が多くて、何事を任せても間違いなどという嫌な心配は少しもありません。発行の当初、何年かの間は中上川彦次郎が引き受け、その後は伊藤欽亮、今は次男の捨次郎がこれに任じ、会計は本山彦一、次いで坂田実、今は戸張志智之助らが専ら担当していますが、私の性質として、金銭出納の細目を聞いたこともなく見たこともなく、その人々のするがままに任せておいて、かつて一度も妙な間違いが起こったことはありません。まことに安心で気楽なものです。こんなことが新聞事業の永続する理由でしょう。 また編集の方について言えば、私の持論は、執筆者は勇を鼓して自由自在に書くべきである。他人のことを論じ、他人の身を評するには、自分とその人とが向かい合って直接語られるようなことに限り、それ以外に逸脱してはならない。どんな激しい議論、どんな大言壮語も構わないが、新聞紙にこれを記すだけで、さて相手の人に会ったとき、自分の良心に恥じて率直に述べることができないようなことを書いておきながら、遠くから知らぬ顔をして、逃げ回るようなものは、これを名づけて陰弁慶の筆という。その陰弁慶こそ無責任な空論となり、罵言讒謗の毒筆となる。君子の恥ずべきところである、とつねに戒めています。しかし私も次第に年をとり、いつまでもこんなことに勉強するのでもなく、老後はなるべく静かに日を送るつもりで、新聞紙のことも若い者に譲り渡して段々遠くなり、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一らが専ら執筆し、私はときどき立案して、できた文章を見てちょっちょっと加筆する程度にしています。
解説
この章句が説くこと
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