福翁自伝 / 老余の半生・一片の論説能く天下の人心を動かす(2)
ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々数千言、噛んでくゝめるように言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上て来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合て居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になったかと思えば自分でも可笑しい。シテ見ると先きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと云われて、その後も兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云いながら、間接には自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為めに利益なればこそ善けれ、是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免かれても死後閻魔の庁で酷い目に逢う筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就て私の言行は都てコンな塩梅式で、自分の身の私に利害はない所謂診察医の考で、政府の地位を占めて自から政権を振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計り、夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安んじて平気で居るから、考の違う役人達が私の平生を見たり聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。
新字:ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々数千言、噛んでくゝめるように言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上て来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合て居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になったかと思えば自分でも可笑しい。シテ見ると先きの明治十四年の騒動に、福沢が政治に関係するなんかんと云われて、その後も兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云いながら、間接には自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為めに利益なればこそ善けれ、是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免かれても死後閻魔の庁で酷い目に逢う筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就て私の言行は都てコンな塩梅式で、自分の身の私に利害はない所謂診察医の考で、政府の地位を占めて自から政権を振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計り、夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安んじて平気で居るから、考の違う役人達が私の平生を見たり聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。
書き下し
ソンな事が深い永い原因に違いはないけれども、不図した事で私が筆を執て、事の必要なる理由を論じて喋々喃々数千言、噛んでくゝめるように言て聞かせた跡で、間もなく天下の輿論が一時に持上て来たから、如何しても報知新聞の論説が一寸と導火になって居ましょう、その社説の年月を忘れたから先達箕浦に面会、昔話をして新聞の事を尋ねて見れば、同人もチャンと覚えて居て、その後古い報知新聞を貸して呉れて、中を見ると明治十二年の七月二十九日から八月十日頃まで長々と書並べて、一寸と辻褄が合て居ます。是れが今の帝国議会を開く為めの加勢になったかと思えば自分でも可笑しい。シテ見ると先きの明治十四年の騒動に、福澤が政治に関係するなんかんと云われて、その後も兎角私の身に目を着ける者が多くて色々に怪しまれたのも、直接に身に覚えのない事とは云いながら、間接には自から因縁のないではない。国会開設、改進々歩が国の為めに利益なればこそ善けれ、是れが実際の不利益ならば、私は現世の罪は免かれても死後閻魔の庁で酷い目に逢う筈でしょう。報知新聞の一件ばかりでない、政治上に就て私の言行は都てコンな塩梅式で、自分の身の私に利害はない所謂診察医の考で、政府の地位を占めて自から政権を振廻わして大下の治療をしようと云う了簡はないが、如何でもして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁昌する大国にして見たいと計り、夫れが大本願で、自分独り自分の身に叶う丈けの事をして、政界の人に交際すればとて、誰に逢うても何ともない、別段に頼むこともなければ相談することもない、貧富苦楽、独り分に安んじて平気で居るから、考の違う役人達が私の平生を見たり聞たりして変に思うたのも決して無理でない、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たらば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。
現代語訳
そんなことが深く長い原因であるに違いはありませんが、ふとしたことで私が筆を執って、事の必要である理由を論じ、数千言をくどくどと、噛んで含めるように言い聞かせた後、間もなく天下の世論が一時に持ち上がってきたので、どうしても報知新聞の論説が少し導火線になっているのでしょう。その社説の年月を忘れたので、先ごろ箕浦に会って昔話をし、新聞のことを尋ねてみると、本人もちゃんと覚えていて、その後古い報知新聞を貸してくれたので、中を見ると、明治十二年の七月二十九日から八月十日ごろまで、長々と書き並べてあり、少し辻褄が合っています。これが今の帝国議会を開くための助けになったかと思えば、自分でもおかしい。してみると、さきの明治十四年の騒動で、福澤が政治に関係するなどと言われ、その後もとかく私の身に目をつける者が多く、いろいろに怪しまれたのも、直接身に覚えのないこととはいえ、間接には自ら因縁がないでもありません。国会開設、改進進歩が国のために利益であるからこそ善いのですが、これが実際の不利益であれば、私は現世の罪は免れても、死後に閻魔の庁でひどい目に遭うはずでしょう。 報知新聞の一件ばかりでなく、政治についての私の言行はすべてこんな具合で、自分の身の私的な利害はない、いわゆる診察医の考えで、政府の地位を占めて自ら政権を振り回して天下の治療をしようという了見はありませんが、なんとかして国民一般を文明開化の門に入れて、この日本国を兵力の強い商売繁盛の大国にしてみたいと思うばかりで、それが大本願です。自分一人、自分の身に叶うだけのことをして、政界の人と交際しても、誰に会っても何ともない。別段頼むこともなく相談することもなく、貧富苦楽、独り分に安んじて平気でいるので、考えの違う役人たちが私の普段を見たり聞いたりして、変に思ったのも決して無理ではありません。けれども真実のところ、私は政府に対して少しも恨みはなく、役人たちにも悪い人と思う者は一人もいません。これが封建門閥の時代に私の流儀でやっていたら、それこそどんな憂き目に遭っていたか分かりません。今日安全に寿命を永らえているのは、明治政府の法律のおかげだと思って喜んでいます。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・老余の半生・一片の論説能く天下の人心を動かす(1)之を第一として、モ一つ本当の事を云うと、私の言論を以て政治社会に多少の影響を及ぼしたこともありましょう。例えば是れまで頓と人の知らぬ事で面白い話がある。明治十年、西南の戦争も片付て後、世の中は静になって、人間が却て無事に苦しむと云うとき、私が不図思付て、是れは国会論を論じたら天下に応ずる者もあろう、随分面白かろうと思て、ソレからその論説を起草して、マダその時には時事新報と云うものはなかったから、報知新聞の主筆藤田茂吉、箕浦勝人にその草稿を見せて、「この論説は新聞の社説として出されるなら出して見なさい、屹と世間の人が悦ぶに違いない。但しこの草稿のまゝに印刷すると、文章の癖が見えて福澤の筆と云うことが分るから、文章の趣意は無論、字句までも原稿の通りにして、唯意味のない妨げにならぬ処をお前達の思う通りに直して、試みに出して御覧。世間で何と受けるか、面白いではないかと云うと、年の若い元気の宜い藤田、箕浦だから、大に悦んで草稿を持て帰て、早速報知新聞の社説に戴せました。当時、世の中にマダ国会論の勢力のない時ですから、この社説が果して人気に投ずるやら、又は何でもない事になって仕舞うやら、頓と見込みが付かぬ。凡そ一週間ばかり毎日のように社説欄内を填めて、又藤田、箕浦が筆を加えて東京の同業者を煽動するように書立てゝ、世間の形勢如何と見て居た所が、不思議なる哉、凡そ二、三ヶ月も経つと、東京市中の諸新聞は無論、田舎の方にも段々議論が喧しくなって来て、遂には例の地方の有志者が国会開設請願なんて東京に出て来るような騒ぎになって来たのは、面白くもあれば、又ヒョイと考直して見れば、仮令い文明進歩の方針とは云いながら、直に自分の身に必要がなければ物数寄と云わねばならぬその物数寄な政治論を吐て、図らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するようなものだと、少し怖くなりました。併し国会論の種は維新の時から蒔てあって、明治の初年にも民選議院云々の説もあり、その後とても毎度同様の主義を唱えた人も多い。
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福翁自伝・老余の半生・明治十四年の政変(2)凡そ当時の政変は政府人の発狂とでも云うような有様で、私はその後岩倉から度々呼びに来て、ソッと裏の茶室のような処で面会、主人公は何かエライ心配な様子で、この度の一件は政府中、実に容易ならぬ動揺である、西南戦争の時にも随分苦労したが、今度の始末はソレよりも六かしいなんかんと話すのを聞けば、余程騒いだものと察しられる。実に馬鹿気たことで、政府は明治二十三年、国会開設と国民に約束して、十年後には饗応すると云て案内状を出したようなものだ、所がその十年の間に客人の気に入らぬ事ばかり仕向けて、人を捕えて牢に入れたり東京の外に逐出したり、マダ夫れでも足らずに、役人達はむかしの大名公卿の真似をして華族になって、是れ見よがしに殻威張を遣て居るから、天下の人はます/\腹を立てゝ暴れ廻わる。何の事はない饗応の主人と客とマダ顔も合わせぬ先きに角突合いになって居るから可笑しい。十四年の真面目の事実は、私が詳に記して家に蔵めてあるけれども、今更ら人の忌がる事を公けにするでもなし黙て居ますが、そのとき私は寺島と極懇意だから何も蚊も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、口まめに饒舌って廻ると政府の中に随分困る奴が出来るがと云うと、寺島も始めて聞て驚き、「成程そうだ、政治上の魂胆は随分穢いものとは云いながら、是れはアンマリ酷い。少し捩くって遣ても宜いじゃないかと、態と勧めるような風であったけれども、私は夫れ程に思わぬ、「御同前に年はモウ四十以上ではないか、先ず/\ソンナ無益な殺生は罷にしようと云て、笑て分れたことがある。
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福翁自伝・老余の半生・仕官を嫌う由縁私の生涯は終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大に愧ることもなく大に後悔することもなく、心静に月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分知て居ながら、遂に政府の役人にならぬと云うは可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭で窃に評論する計りでない、現に直接に私に向て質問する者もある。啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立て思う事を行えば、名誉にも為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯笑て取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼れは旧幕府に操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云う者があるが、福澤もその遺臣を気取て、物外に瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違いない、心に不平があれば新政府の為めに宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運らして居る者の多いのは、私も大抵知て居る。所が斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔を吐て脱走までする時に、私は強て議論もせず、脱走連中に知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷にしろと云て止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度適当の嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是れも遺臣と云われぬ。その遺臣論は姑く擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯ジッと中立独立と説を極めて居ると、今度の新政府は開国に豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独りで身に叶う丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成のものになって来て、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に有り難い仕合せで、実に不思議な事で、云わば私の大願も成就したようなものだから、最早や一点の不平は云われない。
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福翁自伝・王政維新・洋行船中の談話夫れでも私に全く政治思想のないではない。例えば文久二年欧行の船中で松木弘安と箕作秋坪と私と三人、色々日本の時勢論を論じて、その時私が「ドウだ迚も幕府の一手持は六かしい、先ず諸大名を集めて独逸聯邦のようにしては如何と云うに、松木も箕作も、マアそんな事が穏かだろうと云う。夫れから段々身の上話に及んで、今日吾々共の思う通りを云えば、正米を年に二百俵貰うて親玉(将軍の事)の御師匠番になって、思う様に文明開国の説を吹込んで大変革をさして見たいと云うと、松木が手を拍て、左様だ/\、是れは遣て見たいと云たのは、松木の功名心もその時には二百俵の米を貰うて将軍に文明説を吹込むぐらいの事で、当時の洋学者の考は大抵皆大同小異、一身の為めに大きな事は考えない。後にその松木が寺島宗則となって、参議とか外務卿とか云う実際の国事に当たのは、実は本人の柄に於て商売違いであったと思います。 夫れは扨置き世の中の形勢を見れば、天下の浮浪即ち有志者は京都に集て居る。夫れから江戸の方では又幕府と云うものが勿論時の政府でリキンで居ると云う訳けで、日本の政治が東西二派に相分れて、勤王佐幕と云う二派の名が出来た。出来た所で、サア其処に至て私が如何するかと云うに、 第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国士族が極々嫌いで之に力を尽す気はない。 第二、左ればとて彼の勤王家と云う一類を見れば、幕府より尚お一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気は固よりない。 第三、東西二派の理非曲直は姑く扨置き、男子が所謂宿昔青雲の志を達するは乱世に在り、勤王でも佐幕でも試みに当て砕けると云うが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。 今その次第を語りましょう。抑も私が始めて江戸に来た時からして幕府の人には感服しない。一寸と旗本御家人に出遇う所が、応接振りは上品で、田舎者と違い弁舌も好く行儀も立派であるが、何分にも外辺ばかりで、物事を微密に考える脳力もなければ又腕力も弱そうに見える、けれども先方は幕府の御直参、此方は又る影もない陪臣だから手の着けようもなく、旗本などに対してはその人の居ない処でも何様々々と尊敬して居るその塩梅式は、京都の御公卿様を取扱うように、唯見た所ばかりを丁寧にして心の中では見縊り抜て居た。
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