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福翁自伝 / 品行家風・始めて上野、向島を見る

私は安政三年、江戸に出て来て、只酒が好きだから所謂口腹の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友相会すれば飲みに行くと云うような事は、ソリャ為て居るけれども、遂ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷の自宅出棺、駒込の寺に葬式執行のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。即ち私が江戸に来てから六年目である。「成る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年酷い腸窒扶斯を煩い、病後の運動には馬に乗るのが最も宜しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗て諸方を乗廻り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を試みて、向島を廻って上野の方に帰て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処が吉原かと心付て、ソレではこのまゝ馬に乗て吉原見物を為ようじゃないかと云出したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り風が悪いと止めて、ソレ切りになって未だに私は吉原と云う処を見たことがない。

書き下し

私は安政三年、江戸に出て来て、只酒が好きだから所謂口腹の奴隷で、家にない時は飲みに行かなければならぬ、朋友相会すれば飲みに行くと云うような事は、ソリャ為て居るけれども、遂ぞ花見遊山はしない。文久三年六月、緒方先生不幸のとき、下谷の自宅出棺、駒込の寺に葬式執行のその時、上野山内を通行して、始めて上野と云う処を見た。即ち私が江戸に来てから六年目である。「成る程これが上野か、花の咲く処かと、通行しながら見物しました。向島もその通りで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがない。所で明治三年酷い腸窒扶斯を煩い、病後の運動には馬に乗るのが最も宜しいと、医者も勧め朋友も勧めたので、その歳の冬から馬に乗て諸方を乗廻り、向島と云う処も始めて見れば、玉川辺にも遊び、市中内外、行かれる処だけは何処でも乗廻わして、東京の方角も大抵分りました。その時に向島は景色もよし道もよし、毎度馬を試みて、向島を廻って上野の方に帰て来るとき、何でも土手のような処を通りながら、アヽ彼処が吉原かと心付て、ソレではこのまゝ馬に乗て吉原見物を為ようじゃないかと云出したら、連騎の者が場所柄に騎馬では余り風が悪いと止めて、ソレ切りになって未だに私は吉原と云う処を見たことがない。

現代語訳

私は安政三年に江戸に出てきて、ただ酒が好きなので、いわゆる口腹の奴隷で、家にないときは飲みに行かなければならず、友達と会えば飲みに行くというようなことはしていましたが、ついぞ花見遊山はしませんでした。文久三年六月、緒方先生が不幸に遭われたとき、下谷の自宅から出棺して、駒込の寺で葬式を執り行うその時に、上野山内を通って、初めて上野というところを見ました。つまり私が江戸に来てから六年目です。「なるほどこれが上野か、花の咲くところか」と、通りながら見物しました。向島もそのとおりで、江戸に来てから毎度人の話には聞くが一度も見たことがありません。ところが明治三年にひどい腸チフスを患い、病後の運動には馬に乗るのが一番よいと医者も勧め友達も勧めたので、その年の冬から馬に乗って各地を乗り回し、向島というところも初めて見ましたし、玉川のあたりにも遊び、市中の内外、行けるところはどこでも乗り回して、東京の方角もだいたい分かりました。その時に向島は景色もよく道もよいので、たびたび馬を試みて、向島を回って上野のほうに帰ってくるとき、何でも土手のようなところを通りながら、ああ、あそこが吉原かと気がついて、それではこのまま馬に乗って吉原見物をしようじゃないかと言い出したら、連れの騎馬の者が、場所柄に騎馬ではあまり格好が悪いと止めたので、それきりになって、いまだに私は吉原というところを見たことがありません。

解説

江戸に来て六年、福沢は上野を見たことがなかったと言います。初めて見たのは、恩師緒方洪庵の葬儀の道すがらでした。この文久三年六月は、洪庵が亡くなった時期にあたります。のちに腸チフスを患い、療養のために馬に乗って東京を巡ったことで、ようやく向島などを知りました。吉原見物を思いつきながら、馬上では体裁が悪いと止められたというオチには、堅物一辺倒ではない軽さがあります。遊びを知らなかったというより、仕事と学びに全力を傾けていたと見るのが自然でしょう。

この章句が説くこと

安政三年上野緒方先生腸窒扶斯向島吉原

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