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福翁自伝 / 一身一家経済の由来・一大投機

私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾能く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書飜訳を勉めて、その製本売捌の事をば都て書林に任してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、亦その製本の紙を買入るゝにも、都て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられると云うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、之を人仕せにして不利益は分て居る。書林の奴等に何程の智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取揚げて此方のものにして遣ろうと説を定めた。定めたは宜いが実は望洋の歎で、少しも取付端がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に挟まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参でなく、向う河岸に居るようなものだから、彼れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、之を掻集めて千両ばかり出来たから、夫れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を遣て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と云うものは実に人の耳目を驚かす。如何なる大書林と雖も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持て来て千両現金、直ぐに渡して遣ると云うのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すに極てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座に引取て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して呉れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入れをするから、蔵に這入てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違いないと先ず信仰して、且つ此方では払いをキリ/\して遣ると云うような訳けで、是れが端緒になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞う。此方の監督者は利いた風をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、是れまで書林の為すべき事は都て此方の直轄にして、書林には唯出版物の売捌を命じて手数料を取らせる計りのことにしたのは、是れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を試みた一例です。

新字:私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾能く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書翻訳を勉めて、その製本売捌の事をば都て書林に任してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、亦その製本の紙を買入るゝにも、都て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられると云うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、之を人仕せにして不利益は分て居る。書林の奴等に何程の智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取揚げて此方のものにして遣ろうと説を定めた。定めたは宜いが実は望洋の嘆で、少しも取付端がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に挟まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参でなく、向う河岸に居るようなものだから、彼れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、之を掻集めて千両ばかり出来たから、夫れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を遣て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と云うものは実に人の耳目を驚かす。如何なる大書林と雖も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持て来て千両現金、直ぐに渡して遣ると云うのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すに極てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座に引取て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して呉れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入れをするから、蔵に這入てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違いないと先ず信仰して、且つ此方では払いをキリ/\して遣ると云うような訳けで、是れが端緒になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞う。此方の監督者は利いた風をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、是れまで書林の為すべき事は都て此方の直轄にして、書林には唯出版物の売捌を命じて手数料を取らせる計りのことにしたのは、是れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を試みた一例です。

書き下し

私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾能く出来た事があります。ソレは幕府時代から著書飜訳を勉めて、その製本売捌の事をば都て書林に任してある。所が江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、亦その製本の紙を買入るゝにも、都て書林の引受けで、その高いも安いも云うがまゝにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられると云うのが年来の習慣である。ソコで私の出版物を見ると中々大層なもので、之を人仕せにして不利益は分て居る。書林の奴等に何程の智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取揚げて此方のものにして遣ろうと説を定めた。定めたは宜いが実は望洋の歎で、少しも取付端がない。第一番の必要と云うのが職人を集めなければならぬ。今までは書林が中に挟まって居て、一切の職人と云う者は著訳者の御直参でなく、向う河岸に居るようなものだから、彼れを此方の直轄にしなければならぬと云うのが差向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、之を掻集めて千両ばかり出来たから、夫れから数寄屋町の鹿島と云う大きな紙問屋に人を遣て、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に千両の紙と云うものは実に人の耳目を驚かす。如何なる大書林と雖も、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持て来て千両現金、直ぐに渡して遣ると云うのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すに極てる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座に引取て、土蔵一杯積込んで、ソレから書林に話して版摺の職人を貸して呉れと云うことにして、何十人と云う大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置て仕事をさせて居る中に、職人が朝夕紙の出入れをするから、蔵に這入てその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違いないと先ず信仰して、且つ此方では払いをキリ/\して遣ると云うような訳けで、是れが端緒になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状して仕舞う。此方の監督者は利いた風をして居るが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も製本仕立師も次第々々に手に附けて、是れまで書林の為すべき事は都て此方の直轄にして、書林には唯出版物の売捌を命じて手数料を取らせる計りのことにしたのは、是れは著訳社会の大変革でしたが、唯この事ばかりが私の商売を試みた一例です。

現代語訳

私が商売に不案内とは言いながら、生涯のうちで大きな投機のようなことを試みて、首尾よくできたことがあります。それは幕府時代から著書や翻訳に努めてきて、その製本や販売はすべて書林に任せてありました。ところが江戸の書林が必ずしも不正な者ばかりではないが、とかく人をばかにする風があります。出版物の草稿ができると、その版下を書くにも、版木や摺りの職人を雇うにも、また製本の紙を買い入れるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本の著訳者は当てがい扶持を授けられるというのが年来の習慣です。そこで私の出版物を見るとなかなか大層なもので、これを人任せにしておく不利益は分かっている。書林の連中に何ほどの知恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権力を取り上げてこちらのものにしてやろうと決心しました。決めたはよいが、実は望洋の嘆で、少しも取り付く端がありません。第一番の必要は職人を集めなければならないことです。今までは書林が中に挟まっていて、一切の職人は著訳者の直属ではなく向こう河岸にいるようなものだから、彼らをこちらの直轄にしなければならないというのがさしあたりの必要でした。そこで私は一策を案じました。その次第は、当時、明治の初年でよほど金もあり、これをかき集めて千両ばかりできたから、それから数寄屋町の鹿島という大きな紙問屋に人をやって紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をしました。その時に千両の紙というものは実に人の耳目を驚かします。どのような大書林でも百五十両か二百両の紙を買うのがやっとの話で、そこへ千両の現金をすぐに渡すというのだから、値も安くするし品物もよいものを寄越すに決まっています。高かったか安かったか知りませんが、百何十俵の半紙を一時に新銭座に引き取って、土蔵一杯に積み込み、それから書林に話して版摺りの職人を貸してくれということにして、何十人という大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督に置いて仕事をさせているうちに、職人が朝夕紙の出し入れをするので、蔵に入ってその紙を見て大いに驚き、大変なものだ、途方もないものだ、この家に製本を始めたが、これだけ紙があれば仕事は永続するに違いないと、まず信用し、かつこちらでは払いをきちんとしてやるというわけで、これが端緒になって、職人どもは問わず語りにいろいろなことをみな白状してしまう。こちらの監督者は利いた風をしているが、その実はまったくの素人で、職人に教わるようにして次第に巧者になり、それから版木師も製本仕立師も次第次第に手に付けて、これまで書林がすべきことはすべてこちらの直轄にし、書林にはただ出版物の販売を命じて手数料を取らせるだけにしたのは、著訳社会の大変革でしたが、ただこのことだけが私の商売を試みた一例です。

解説

苦手と言う商売で、福沢が見せた鮮やかな一手です。出版では書林が職人も紙も握り、著者は扶持を受けるだけだったため、福沢は千両の紙を現金で一括購入して職人の信用を得、製作工程を自分の直轄にしました。現金払いの大口購入が価格と品質と信頼を同時に引き寄せたという構図は、現代の調達や内製化の話にも通じます。仲介に握られていた力を取り戻し、販売だけを任せて手数料を払う形に整えたのは、業界構造を変える決断でした。弱い立場でも、現金という一点で主導権を奪い返せる好例です。

この章句が説くこと

出版書林職人土佐半紙現金直轄

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