福翁自伝 / 一身一家経済の由来・武士の丸腰
所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門と云う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に向て丸腰になれと云うような説で、ソレ計りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ為なさるな、ドウでも宜しい、御勝手になさい、只私は爾うしたらば便利だと思う丈けの話だからと云て、ソレ切り罷めになって仕舞いましたが、併し私はその政治論に熱しなかったと云う為めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、是れは事実に於て間違いないことで、自から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が宜かった。例えば私の妻の里などは二百五十石取て居て三千円ばかりの公債証書を貰い、今泉(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か取て居たが四千円も貰いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に付かずと云うような訳けで、終にはなくして仕舞って何もありはしない。兎に角に中津藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
書き下し
所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門と云う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に向て丸腰になれと云うような説で、ソレ計りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ為なさるな、ドウでも宜しい、御勝手になさい、只私は爾うしたらば便利だと思う丈けの話だからと云て、ソレ切り罷めになって仕舞いましたが、併し私はその政治論に熱しなかったと云う為めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、是れは事実に於て間違いないことで、自から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が宜かった。例えば私の妻の里などは二百五十石取て居て三千円ばかりの公債証書を貰い、今泉(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か取て居たが四千円も貰いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に付かずと云うような訳けで、終にはなくして仕舞って何もありはしない。兎に角に中津藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
現代語訳
ところがそれには大反対です。兵事係の役人が三人も四人もいるなかで、菅沼新五右衛門という人などは大反対で、満座一致で、それはできません、何のことはない、武士に向かって丸腰になれというような説で、それだけはどうしてもできないと言うので、私は深く論じもせず、できなければなさるな、どうでもよい、お好きになさい、ただ私はそうしたら便利だと思うだけの話だからと言って、それきりやめになってしまいました。しかし私がその政治論に熱くならなかったために、中津の藩士が怪我をしなかったということは、事実において間違いないことで、おのずから藩のために功徳になっているでしょう。そのうえ中津藩では減禄をしなかったばかりか、平均してみると加増された者もいます。何でもたいへん割がよかった。たとえば私の妻の実家などは二百五十石取っていて三千円ばかりの公債証書をもらい、今泉秀太郎氏は私の妻の姉の家で三百五十石ほど取っていたが、四千円ももらったでしょう。けれども藩士の禄券というものは悪銭身につかずというわけで、しまいには失くしてしまって何も残っていません。とにかく中津藩が穏やかであったということは、間違いない話です。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・一身一家経済の由来・武器売却を勧む夫れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今云う通り禄も身分も元の通りにして置くが宜かろう、ソレは宜しいが、茲に一つ忠告したいことがある。今この中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武を以て国を立てようと云うその趣はチャンと見えて居るが、併し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、左れば今日只今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来れば之にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩罪なし武器災をなすと云わねばならぬ、ダカラ寧そこの鉄砲を皆売て仕舞いたい、見れば大砲は何れもクルップだ、これを売れば三千五千或は一万円になるかも知れぬから、一切売て仕舞て昔の琉球見たようになって仕舞うが宜い、爾うして置て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から遣て来たら、ヘイ/\、斯う為ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に行て直に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方はドウでも宜いと、斯う云う仕向けが宜かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから爾う云うようにしたい、そうして一方に於てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに極てるから、学校を拵えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を執るが一番大事である、扨爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞えば、余り割合が宜過ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて困て居る、ソコで一片の願書なり届書なり認めて出して見るが宜しい、その次第はこの中津藩は武備を廃したる為めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも為すって下さいと斯う云えば、海陸軍では大に悦ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に堪まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に於て有るに極た訳けではないか、然るに此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処では仏蘭西の小銃、此方は和蘭から昔し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に於てイザ事と云ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが宜い、爾うすれば独り政府が悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・旧藩の平穏は自から原因あり私の経済話から段々枝がさいて長くなりましたが、序ながら中津藩の事に就て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極淡泊にあったと云うその為めに、茲に随分心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛で、動もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を以て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと云うようなことは、何れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、若し私に政治上の功名心があって、藩に行て佐幕とか勤王とか何か云出せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は黙て居て一寸も発言せず、人が噂をすれば、爾う喧しく云わんでも宜い、棄てゝ置きなさいと云うように、極淡泊にして居たから、中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが為めだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟したと云うこともなかった。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・藩の重役に因循姑息説を説くソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行たことがある、所がその時は藩政も大いに変て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸ドウも大変な事を云うだろうと待受けて居たに違いない。夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜かろうか、方向に迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之に答えて、イヤもう是れはドウするにも及ばぬことだ、能く諸藩では或は禄を平均すると云うような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘で、千石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々として居るが上策だと、その説を詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是れは/\穏かなことを云うもの哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
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福翁自伝・攘夷論・刀剣を売払うソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
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福翁自伝・王政維新・拝領の紋服をその日に売る爾う云う風に構えて、一切政治の事に就て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸の処へ参た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付て居る縮緬の羽織を呉れた。即ち御紋服拝領だ。左まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云て苦情も云わず、只難有うございますと云て拝領して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄の朋友菅沼孫右衛門と云う人の勤番長屋に何か用があって寄た所が、其処に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞て居ると羽織を拵えると云うような様子。夫れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様さ。「爾うか、羽織には宜い縮緬の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜い、爾う云う売物があるなら兎も角も見たいものだ。「買うと云いなされば此処に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支ない、買おう。就ては此処に呉服屋が来て居るが、価はドウだ。「値は呉服屋に付けて貰えば宜いと云て、夫れからどの位の価かと云たら、単羽織の事だから一両三分だと云う。スグ相談が出来て、その羽織を売て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲の中屋敷に帰たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日見た彼の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極無邪気な事であった。
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