福翁自伝 / 攘夷論・刀剣を売払う
ソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
新字:ソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書翻訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
書き下し
ソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
現代語訳
そこで私は、ただ独りで身を慎むと同時に、これはどうしても刀は要らない、馬鹿らしい、刀は売ってしまえと決断しました。私のところにはそんなに大小などは多くありませんが、それでも五本や十本はあったと思います。神明前の田中重兵衛という刀屋を呼んで、すべて売り払ってしまいました。けれども、その時分はまだ二本差さなければならない時でしたから、私の父の差していた小刀、つまり裃を着るときに差す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、それから神明前の金物屋で小刀を買って短刀作りにこしらえて、ただ印だけの脇差として差すことにして、あとは残らず売り払い、その代金は確か二度に六、七十両受け取ったことは今でも覚えています。つまり、家に伝わる長い脇差が刀に化けたのが一本、小刀でこしらえた短い脇差が一本、それきりで外には何もありません。そして小さくなっているばかりでした。私は少年の時から大阪の緒方の塾にいるときも、戯れに居合を抜いて、ずいぶん好きでしたけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥にしまい込み、刀などは生まれてから差すばかりで、抜いたこともなければ抜く方法も知らないというふうをして、ただ用心に用心して、夜は決して外に出ず、およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間というもの、夜に外出したことはありません。その間の仕事は何かというと、ただ著書や翻訳にだけ打ち込んで、年月を送っていました。
解説
この章句が説くこと
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