導師導古典を学びたいすべての人に 法人向けワークシート法人向けワークシート

福翁自伝 / 王政維新・拝領の紋服をその日に売る

爾う云う風に構えて、一切政治の事に就て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸の処へ参た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付て居る縮緬の羽織を呉れた。即ち御紋服拝領だ。左まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云て苦情も云わず、只難有うございますと云て拝領して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄の朋友菅沼孫右衛門と云う人の勤番長屋に何か用があって寄た所が、其処に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞て居ると羽織を拵えると云うような様子。夫れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様さ。「爾うか、羽織には宜い縮緬の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜い、爾う云う売物があるなら兎も角も見たいものだ。「買うと云いなされば此処に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支ない、買おう。就ては此処に呉服屋が来て居るが、価はドウだ。「値は呉服屋に付けて貰えば宜いと云て、夫れからどの位の価かと云たら、単羽織の事だから一両三分だと云う。スグ相談が出来て、その羽織を売て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲の中屋敷に帰たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日見た彼の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極無邪気な事であった。

書き下し

爾う云う風に構えて、一切政治の事に就て口を出そうと思わない。思わないから奥平の邸で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に依頼する必要もない。眼中人もなければ藩もなし、左ればとて藩の邪魔をしようとも思わず、唯屋敷の長屋を借りて安気に住居するばかり、誠に淡泊なもので、或時私が何かの事に就て御用があるから出て来いと云うから、上屋敷の御小納戸の処へ参た所が、之を貴様に下さると云て、奥平家の御紋の付て居る縮緬の羽織を呉れた。即ち御紋服拝領だ。左まで喜びもしなければ、品物が粗末だと云て苦情も云わず、只難有うございますと云て拝領して、その帰りに屋敷内に国から来て居る亡兄の朋友菅沼孫右衛門と云う人の勤番長屋に何か用があって寄た所が、其処に出入りの呉服屋か知らん古着屋か知らん呉服商人が来て何か話をして居る。ソレを聞て居ると羽織を拵えると云うような様子。夫れから私が、アヽ孫右衛門さん、羽織をお拵えか。「左様さ。「爾うか、羽織には宜い縮緬の売物があるが買いなさらんか。「爾うかソリャ幸いだが、紋所は。「紋所は御紋付だから誰にでも着られる羽織だがドウだ。「ソリャ宜い、爾う云う売物があるなら兎も角も見たいものだ。「買うと云いなされば此処に持て居るこの羽織だがドウだ。「成程御紋付だから差支ない、買おう。就ては此処に呉服屋が来て居るが、価はドウだ。「値は呉服屋に付けて貰えば宜いと云て、夫れからどの位の価かと云たら、単羽織の事だから一両三分だと云う。スグ相談が出来て、その羽織を売て一両三分の金を持て、私は鉄砲洲の中屋敷に帰たことがあると云うような次第で、全体藩の一般の習慣にすれば、拝領の御紋服と云うものはその拝領した年月を系図にまで認めて家の名誉にすると云う位のものなれども、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。夫れよりか金の方が宜い。一両三分あれば昨日見た彼の原書も買われる、原書を買わなければ酒を飲むと云うような、至極無邪気な事であった。

現代語訳

そういう風に構えて、一切政治のことについて口を出そうと思わない。思わないから、奥平の屋敷で立身出世しようとも思わない。立身出世の野心がなければ人に頼る必要もない。眼中に人もなければ藩もない、さりとて藩の邪魔をしようとも思わず、ただ屋敷の長屋を借りて気楽に住んでいるばかり、まことに淡泊なもので、あるとき私が何かのことについて御用があるから出て来いと言われ、上屋敷の御小納戸のところへ行ったところ、これを貴様に下さると言って、奥平家の御紋が付いている縮緬の羽織をくれました。つまり御紋服拝領です。さほど喜びもせず、品物が粗末だといって苦情も言わず、ただありがとうございますと言って拝領して、その帰りに、屋敷内に国から来ている亡兄の友人、菅沼孫右衛門という人の勤番長屋に何か用があって寄ったところ、そこに出入りの呉服屋か古着屋か、呉服商人が来て何か話をしています。それを聞いていると、羽織を作るというような様子。そこで私が、「ああ、孫右衛門さん、羽織をお作りか」「そうさ」「そうか、羽織にはいい縮緬の売り物があるが、買いなさらんか」「そうか、それは幸いだが、紋所は」「紋所は御紋付だから誰にでも着られる羽織だがどうだ」「それはいい、そういう売り物があるなら、ともかく見たいものだ」「買うと言いなさるなら、ここに持っているこの羽織だがどうだ」「なるほど御紋付だから差し支えない、買おう。ついてはここに呉服屋が来ているが、値段はどうだ」「値は呉服屋に付けてもらえばよい」と言って、それからどのくらいの値かと聞くと、単羽織のことだから一両三分だと言います。すぐ相談がまとまって、その羽織を売って一両三分の金を持って、私は鉄砲洲の中屋敷に帰ったことがあるといったありさまで、全体、藩の一般の習慣からすれば、拝領の御紋服というものは、その拝領した年月を系図にまで書いて家の名誉にするほどのものですが、私はその御紋服の羽織を着ても着なくても何ともない。それより金のほうがよい。一両三分あれば、昨日見たあの原書も買える。原書を買わなければ酒を飲むというような、至極無邪気なことでした。

解説

藩から拝領した家紋入りの羽織を、福沢はその日のうちに一両三分で売ってしまいます。家の名誉として系図に書き残すのが普通の品物ですが、福沢には着ても着なくても同じで、金のほうが原書を買えるという実利の価値しかありませんでした。これは名誉や肩書を軽んじた逸話として有名です。ただ、藩の慣習の価値観をまったく共有していないことも、周囲から見れば不親切に映る要因でした。何を価値とするかは人によって違い、自分が大事にしていないものでも、周囲にとっては大事な場合がある、という点も読み取れます。

この章句が説くこと

御紋服拝領羽織原書無邪気名誉より実利

関連する章句

『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

本の中身を見る
本2冊(人生の方程式・人生の教科書)+師導1か月=700円 本を見る