福翁自伝 / 一身一家経済の由来・藩の重役に因循姑息説を説く
ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行たことがある、所がその時は藩政も大いに変て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸ドウも大変な事を云うだろうと待受けて居たに違いない。夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜かろうか、方向に迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之に答えて、イヤもう是れはドウするにも及ばぬことだ、能く諸藩では或は禄を平均すると云うような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘で、千石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々として居るが上策だと、その説を詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是れは/\穏かなことを云うもの哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
新字:ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行たことがある、所がその時は藩政も大いに変て居まして、福沢が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸ドウも大変な事を云うだろうと待受けて居たに違いない。夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜かろうか、方向に迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之に答えて、イヤもう是れはドウするにも及ばぬことだ、能く諸藩では或は禄を平均すると云うような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘で、千石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々として居るが上策だと、その説を詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是れは/\穏かなことを云うもの哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
書き下し
ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行たことがある、所がその時は藩政も大いに変て居まして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないかと云うようなことになって、家老の邸に呼ばれて行た、所が藩の役人と云う有らん限りの役人重役が皆其処に出て居る。案ずるに、私が行たらば嘸ドウも大変な事を云うだろうと待受けて居たに違いない。夫れから私が其処に出席すると、重役達の云うに、藩はドウしたら宜かろうか、方向に迷て五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私は之に答えて、イヤもう是れはドウするにも及ばぬことだ、能く諸藩では或は禄を平均すると云うような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに今日のこの儘で、千石取て居る人は千石、百石取て居る人は百石、大平無事に悠々として居るが上策だと、その説を詳に陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、是れは/\穏かなことを云うもの哉と云わぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。
現代語訳
そこで私が明治三年に、中津へ母を迎えに行ったことがあります。ところがその時は藩政も大いに変わっていて、福沢が東京から来たから話を聞こうではないかということになり、家老の屋敷に呼ばれて行きました。すると藩の役人というありったけの役人、重役がみなそこに出ています。思うに、私が行ったらさぞ大変なことを言うだろうと待ち受けていたに違いありません。それから私がそこに出席すると、重役たちが言うには、藩はどうしたらよかろうか、方向に迷って五里霧中だなどと、何か心配そうに話すので、私はこれに答えて、いやもうこれはどうするにも及ばぬことだ、よく諸藩では禄を平均するといったことでだいぶ騒々しいが、私の考えでは何もせずに今日のままで、千石取っている人は千石、百石取っている人は百石、泰平無事に悠々としているのが上策だと、その説を詳しく述べると、居並ぶ役人はたいへん驚くと同時に、これはこれは穏やかなことを言うものだと言わんばかりの様子で、だいぶ顔色がよくなりました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・一身一家経済の由来・旧藩の平穏は自から原因あり私の経済話から段々枝がさいて長くなりましたが、序ながら中津藩の事に就て、モ少し云う事があります。前に申す通り私は勤王佐幕など云う天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極淡泊にあったと云うその為めに、茲に随分心に快いことがある、と云うのはあの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛で、動もすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断を以て藩政改革とか云う為めに、一藩中に争論が起り、党派が分れて血を流すと云うようなことは、何れの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、若し私に政治上の功名心があって、藩に行て佐幕とか勤王とか何か云出せば、必ず一騒動を起すに違いない。所が私は黙て居て一寸も発言せず、人が噂をすれば、爾う喧しく云わんでも宜い、棄てゝ置きなさいと云うように、極淡泊にして居たから、中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのはソレが為めだろうと思います。人殺しどころか人を黜陟したと云うこともなかった。
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福翁自伝・王政維新・本藩に対して功名心なし既に心に決定して居れば、藩に居て功名心と云うものは更らにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすと云うような野心は少しもないのみか、私にはその錦が却て恥かしくて着ることが出来ない。グヅ/″\云えば唯この藩を出て仕舞う丈けの事だと云うのが若い時からの考えで、人にこそ云わね、私の心では眼中藩なしと斯う安心を極めて居ましたので、夫れから長崎に行き大阪に出て修業して居るその中に、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うると云うことをして居ながらも、藩の政庁に対しては誠に淡泊で、長い歳月の間只の一度も建白なんと云うことをしたことはない。能く世間にある事で、イヤどうも藩政を改革して洋学を盛にするが宜いとか、兵制を改革するが宜いとか云うことは書生の能く遣ることだ、けれども私に限り只の一度も云出したことがない。ソレと同時に自分の立身出世を藩に向て求めたことがない。ドウ云うように身分を取立てゝ貰いたい、ドウ云うようにして禄を増して貰いたいと云うような事は、陰にも陽にもどんな事があっても藩の長老に内願などしたことがない。ソコで江戸に参てからも、本藩の様子を見れば種々な事を試みて居る。兵制で申せば西洋流の操練を採用したことがある。けれども私はソレを宜いと云て誉めもしなければ悪いと云て止めたこともなし、又或は大に漢学を盛にすると云て頻りに学校の改革などを企てたこともある。或は兵制は甲州流が宜いと云て法螺の貝を吹て藩中で調練をしたこともある。ソレも私は只目前に見て居るばかりで、善いとも悪いとも一寸とも云たことがない。或時に家老の隠居があって、大層政治論の好きな人で、私が家老の家に行たらば、その隠居が、ドウも公武の間が甚だ穏かでない、全体どうも近衛様が爾うも有りそうもない事だとか、或は江戸の御老中が詰らないとか云うような慷慨談を頻りに云て居る。爾う云われると私も何か云いそうな事だ、所が私は決して云わない。如何にも爾うでしょう、ソリャ成程近衛様も爾うだろう、御老中も爾うだろうが、扨ソレが実地になると傍観者の思うようにはならぬもので、近くはこの奥平様の屋敷でも、マダして宜いこともあるだろう、為なくて宜いこともあるだろう、傍観者から之を見たらば嘸堪え難いことに思うでありましょうけれども、当局の御家老の身になって見れば又爾う思う通りに行かないもので、矢張り今の通りより外に仕様がない。余り人の事を批評しても詰らぬ事です。私は一体そんな事に就ては何を議論しようとも思わぬと云て、少しも相手にならなかった。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・武士の丸腰所がソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人も居る中で、菅沼新五右衛門と云う人などは大反対、満坐一致で、ソレは出来ませぬ、何の事はない、武士に向て丸腰になれと云うような説で、ソレ計りは何としても出来ないと云うから、私は深く論じもせず、出来なければ為なさるな、ドウでも宜しい、御勝手になさい、只私は爾うしたらば便利だと思う丈けの話だからと云て、ソレ切り罷めになって仕舞いましたが、併し私はその政治論に熱しなかったと云う為めに、中津の藩士が怪我を為なかったと云うことは、是れは事実に於て間違いないことで、自から藩の為めに功徳になって居ましょう。その上に中津藩では減禄をしないのみならず、平均した所で加増した者がある。何でも大変に割合が宜かった。例えば私の妻の里などは二百五十石取て居て三千円ばかりの公債証書を貰い、今泉(秀太郎氏なり)は私の妻の姉の家で三百五十石か取て居たが四千円も貰いましたろう。けれども藩士の禄券と云うものは悪銭身に付かずと云うような訳けで、終にはなくして仕舞って何もありはしない。兎に角に中津藩の穏かであったと云うことは間違いない話です。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
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福翁自伝・暗殺の心配・警戒却て無益なり前の鵜ノ島の話に引替えて、誠に馬鹿々々しい事もあります。明治五年かと思う。私が中津の学校を視察に行き、その時旧藩主に勧めて一家挙って東京に引越し、私が供をして参ると云うことになった。処で藩主が藩地を去るは固より士族の悦ぶことでない。私も能くその情実は知て居るけれども、昔の大名風で藩地に居れば奥平家の維持が出来ない、思切て断行せよと云うので、疾雷耳を掩うに暇あらず、僅か六、七日間の支度で、御隠居様も御姫様も中津の浜から船に乗て馬関に行き、馬関で蒸気船に乗替えて神戸と、都ての用意調い、いよ/\中津の船に乗て夕刻沖の方に出掛けた処が生憎風がない、夜中水尾木の処にボチャ/\して少しも前に進まない。ソコで私は考えた。「コリャ大変だ、爰にグヅ/\して居ると例の若武者が屹と遣て来るに違いない、来ればその目指す敵は自分一人だ、幸い夜の明けぬ中に船を上て陸行するに若くはなしと決断して、極暑の時であったが、払暁マダ暗い中に中津の城下に引返して、その足で小倉まで駈けて行きました。所が大きに御苦労、後に聞けばこの時には藩士も至極穏かで何の議論もなかったと云う。此方が邪推を運らして用心する時は何でもなく、ポカンとして居る時は一番危い、実に困たものです。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・武器売却を勧む夫れから段々話が進んで来た所で、私は一つ注文を出した。今云う通り禄も身分も元の通りにして置くが宜かろう、ソレは宜しいが、茲に一つ忠告したいことがある。今この中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武を以て国を立てようと云うその趣はチャンと見えて居るが、併し今の藩士とこの藩に在る武器で以て果して戦争が出来るかドウか、私はドウも出来なかろうと思う、左れば今日只今長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ、又薩州の兵が攻来れば之にも抵抗することが出来ないから薩州に従わなければならぬ、誠に心配な話である、之を私が言葉を設けて評すれば、弱藩罪なし武器災をなすと云わねばならぬ、ダカラ寧そこの鉄砲を皆売て仕舞いたい、見れば大砲は何れもクルップだ、これを売れば三千五千或は一万円になるかも知れぬから、一切売て仕舞て昔の琉球見たようになって仕舞うが宜い、爾うして置て長州から政めて来たら、ヘイ/\、又薩摩から遣て来たら、ヘイ/\、斯う為ようとか、アヽ為ようとか云えば、ドウか長州に行て直に話をして下さい、又長州ならドウか薩州に行て直談を頼むと云て、一切の面倒を他に嫁して、此方はドウでも宜いと、斯う云う仕向けが宜かろう、そうした所で殺しもしなければ捕縛して行きもしないから爾う云うようにしたい、そうして一方に於てはドウしてもこの世の中は文明開化になるに極てるから、学校を拵えて文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせると云う方針を執るが一番大事である、扨爾う云う方針を執るとして、武器を廃して仕舞えば、余り割合が宜過ぎるようだが、ソコには斯う云うことがある、今私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして金がなくて困て居る、ソコで一片の願書なり届書なり認めて出して見るが宜しい、その次第はこの中津藩は武備を廃したる為めに年々何万円と云う余計な金がある、この金を納めましょうから政府の方でドウでも為すって下さいと斯う云えば、海陸軍では大に悦ぶ、政府の身になって見れば、この諸藩三百の大名が各々色変りの武器を作り色変りの兵を備えて置くその始末に堪まるものじゃない、ドウしたッて一様にしたいと云うのは、コリャ政府の政略に於て有るに極た訳けではないか、然るに此処ではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤ彼処では仏蘭西の小銃、此方は和蘭から昔し輸入したゲベルを持て居ると云うような、日本国中千種万様の兵備では、政府に於てイザ事と云ても戦争が出来そうにもしない、ソレよりかその金を納むるが宜い、爾うすれば独り政府が悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる、所謂一挙両全の策であるから爾う遣りなさいと云た。
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