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福翁自伝 / 一身一家経済の由来・乗船切符を偽らず

右様な大金の話でない、極々些細の事でも一寸と胡麻化して貪るようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男一太郎と次男捨次郎と両人を連れて上方見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、金場小平次と云う兼て懇意の問屋に一泊、ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰て来て、復た三菱の船に乗込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗込みと云うときにその切符を請取て見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚の筈だ、何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、番頭は落付払い、「ナーニ間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの御年も御誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然です。規則には満十二歳以上なんて書てありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんと云うから、私は承知しない。「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、是非規則通りに払うと云うと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんと云て議論のように威張るから、「何でも宜しい。乃公は乃公の金を出して払うものを払い、貴様には唯その周旋を頼む丈けだ。何も云わずに呉れろと申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。是れは何も珍らしくない、買物の代を当然に払うまでの事だから、世間の人も左様であろうと思うけれども、今日例えば汽車に乗て見ると、青い切符を以て一寸と上等に乗込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札を以て上等に飛込み神奈川に上った奴がある。私は箱根帰りに丁度その列車に乗て居て、ソット奴の手に握てる中等切符を見て、扨々賤しい人物だと思いました。

書き下し

右様な大金の話でない、極々些細の事でも一寸と胡麻化して貪るようなことは私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男一太郎と次男捨次郎と両人を連れて上方見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円、規則の通りに払うて神戸に着船、金場小平次と云う兼て懇意の問屋に一泊、ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰て来て、復た三菱の船に乗込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗込みと云うときにその切符を請取て見れば、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚の筈だ、何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、番頭は落付払い、「ナーニ間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの御年も御誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然です。規則には満十二歳以上なんて書てありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんと云うから、私は承知しない。「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、是非規則通りに払うと云うと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんと云て議論のように威張るから、「何でも宜しい。乃公は乃公の金を出して払うものを払い、貴様には唯その周旋を頼む丈けだ。何も云わずに呉れろと申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。是れは何も珍らしくない、買物の代を当然に払うまでの事だから、世間の人も左様であろうと思うけれども、今日例えば汽車に乗て見ると、青い切符を以て一寸と上等に乗込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札を以て上等に飛込み神奈川に上った奴がある。私は箱根帰りに丁度その列車に乗て居て、ソット奴の手に握てる中等切符を見て、扨々賤しい人物だと思いました。

現代語訳

そのような大金の話でなく、ごくごく些細なことでも、ちょっと誤魔化して貪るようなことは、私の性に合いません。明治九年の春、私が長男一太郎と次男捨次郎の二人を連れて上方見物に行くとき、一太郎は十二歳余り、捨次郎は十歳余り、父子三人、従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等で十円か十五円、規則のとおりに払って神戸に着船し、金場小平次という、かねて懇意の問屋に一泊し、それから大阪、京都、奈良など、諸所を見物して神戸に帰って来て、再び三菱の船に乗り込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買ってもらい、さあ乗り込みというときにその切符を受け取って見ると、大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あります。そこで番頭を呼んで、「先ほど申したとおり、切符は大人が二枚、子供が一枚のはずだ。何かの間違いであろう、替えてもらいたい」と言うと、番頭は落ち着き払って、「なに、間違いはありません。大きいお坊ちゃんのお年も誕生日も聞きました。正味十二と二、三か月、半札は当然です。規則には満十二歳以上などと書いてありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしません」と言うので、私は承知しません。「二、三か月でも二、三日でも、規則は規則だ。ぜひ規則どおりに払う」と言うと、番頭もなかなか頑固で、「そんな馬鹿なことは致しません」と言って議論のように威張るので、「何でもいい。俺は俺の金を出して払うものを払うのだ、貴様にはただその周旋を頼むだけだ。何も言わずにくれ」と申して、何円かの金を渡し、乗船前の忙しいところで切符を取り替えたことがあります。これは何も珍しくない、買い物の代金を当然に払うまでのことですから、世間の人もそうであろうと思うけれども、今日、例えば汽車に乗ってみると、青い切符でちょっと上等に乗り込む人もあるようです。先日も横浜から、例の青札で上等に飛び込み、神奈川で降りた奴がありました。私は箱根帰りにちょうどその列車に乗っていて、そっと奴の手に握っている中等切符を見て、さてさて卑しい人物だと思いました。

解説

十二歳を数か月過ぎた長男の運賃を、番頭が半額にしようとしたのを、福沢は規則どおり大人運賃に直させます。誰もが見逃す小さな誤魔化しだからこそ、福沢は許しません。汽車で下位の切符のまま上等に乗る者を、卑しい人物と断じる厳しさもあります。些細なことで原則を曲げる人は、大きな局面でも曲げる。逆に、小さなことを守る姿勢が信頼を生むという、日々の誠実さが説かれています。人目のない場面での振る舞いが、人物を決めるという視点です。

この章句が説くこと

乗船切符規則半札誤魔化し汽車誠実

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