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福翁自伝 / 一身一家経済の由来・事変の当日、約束の金を渡す(1)

ソコで以て慶応三年、即ち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に依ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を以て売買勝手次第と云うことになって、新銭座の有馬の中屋敷が売物になると人の話を聞て、同じ新銭座住居の木村摂津守の用人大橋栄次と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価は三百五十五両、その時の事だから買うと云た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう訳けはない、唯売りましょう然らば則ち買いましょうと云う丈けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、夫れから私はその前日、三百五十五両の金を揃えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に行て見ると、門が締て潜戸まで鎖してある。夫れから門番に、此処を明けて呉れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は亜米利加行の由縁で、木村家には常に出入して家の者のようにして居たから、門番も福澤と聞て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ遣て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に上て大橋に遇て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼払おうと云う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、夫れは夫れとして、時にあの屋敷の金を持て来たから渡してお呉んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切罷めだ、マアそんな事を為なさるなと云て取合ぬから、私は不承知だ。ソリャ爾うでない、今日渡と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋は脇の方に向て、「約束したからと云て時勢に依たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気たことがあるものか。

新字:ソコで以て慶応三年、即ち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に依ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を以て売買勝手次第と云うことになって、新銭座の有馬の中屋敷が売物になると人の話を聞て、同じ新銭座住居の木村摂津守の用人大橋栄次と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価は三百五十五両、その時の事だから買うと云た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう訳けはない、唯売りましょう然らば則ち買いましょうと云う丈けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、夫れから私はその前日、三百五十五両の金を揃えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に行て見ると、門が締て潜戸まで鎖してある。夫れから門番に、此処を明けて呉れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福沢だと云うのは、私は亜米利加行の由縁で、木村家には常に出入して家の者のようにして居たから、門番も福沢と聞て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ遣て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に上て大橋に遇て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼払おうと云う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、夫れは夫れとして、時にあの屋敷の金を持て来たから渡してお呉んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切罷めだ、マアそんな事を為なさるなと云て取合ぬから、私は不承知だ。ソリャ爾うでない、今日渡と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋は脇の方に向て、「約束したからと云て時勢に依たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気たことがあるものか。

書き下し

ソコで以て慶応三年、即ち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に依ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を以て売買勝手次第と云うことになって、新銭座の有馬の中屋敷が売物になると人の話を聞て、同じ新銭座住居の木村摂津守の用人大橋栄次と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価は三百五十五両、その時の事だから買うと云た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう訳けはない、唯売りましょう然らば則ち買いましょうと云う丈けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、夫れから私はその前日、三百五十五両の金を揃えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に行て見ると、門が締て潜戸まで鎖してある。夫れから門番に、此処を明けて呉れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は亜米利加行の由縁で、木村家には常に出入して家の者のようにして居たから、門番も福澤と聞て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ遣て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に上て大橋に遇て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼払おうと云う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、夫れは夫れとして、時にあの屋敷の金を持て来たから渡してお呉んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切罷めだ、マアそんな事を為なさるなと云て取合ぬから、私は不承知だ。ソリャ爾うでない、今日渡と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋は脇の方に向て、「約束したからと云て時勢に依たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気たことがあるものか。

現代語訳

そこで、慶応三年、すなわち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあって、その屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律によると、武家屋敷は屋敷替えは許してもよいが、売買は許されないという掟でした。ところが徳川もその末年になると、さまざまな根本的改革が行われて、武家屋敷でも代金をもって売買勝手次第ということになりました。新銭座の有馬の中屋敷が売りに出ると人の話に聞き、同じ新銭座に住んでいる木村摂津守の用人、大橋栄次という人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束しました。値は三百五十五両、その時のことですから、買うと言っても、武家と武家の間で手付金だの、証書の取り換えだのということがあるはずもなく、ただ売りましょう、ならば買いましょうというだけの話で約束ができ、金の受け渡しはいつだというと、十二月二十五日に金を相渡し申す、受け取ろう、とちゃんと約束ができていました。それから私は前の日に、三百五十五両の金を揃えて風呂敷に包み、翌早朝、新銭座の木村の屋敷に行ってみると、門が閉まっていて、くぐり戸まで鎖してあります。それから門番に、ここを開けてくれ、なぜ閉めておくのかと言うと、「いいえ、ここは開けられません」。「開けられませんといっても福沢だ」というのは、私はアメリカ行きの縁で、木村家には常に出入りして家の者のようにしていたので、門番も福沢と聞いて、くぐり戸を開けてはくれましたが、何だか門前が騒々しい。どたばたやっています。何事かと思って南の方を見ると、真っ黒な煙が立っています。それで木村の玄関に上がって大橋に会い、ずいぶん騒々しいが何だと言うと、大橋がひそひそ声で、「お前さんは何も知らぬか。大変なことが起こりました、大騒動だ。酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼き払おうというので、どうもこれは大騒動、戦争でござる」と言うので、私も驚いて、それは少しも知らなかった、なるほどどうも容易ならぬ形勢だが、それはそれとして、時にあの屋敷の金を持って来たから、渡してください、と言うと、大橋が、「途方もない、屋敷どころの話じゃない、何のことだ。もうこれは江戸中の屋敷が一銭の価値もなくなったのだ。それを屋敷を買うなんて、そんな馬鹿らしいことは一切やめだ、まあそんなことをなさるな」と言って取り合いません。私は不承知で、「それはそうではない。今日渡すという約束だから、この金は渡さなくてはならない」と言うと、大橋は脇のほうを向いて、「約束したからといって、時勢によるものだ。この大変な騒動中に屋敷を買うというような馬鹿げたことがあるものか。

解説

慶応三年十二月二十五日、江戸薩摩藩邸焼き討ちの朝に、福沢は約束の屋敷代金三百五十五両を持って木村の屋敷に向かいます。江戸が戦火に包まれるなか、売主側は、こんな時に屋敷を買うのは馬鹿らしいからやめにしようと言いますが、福沢は約束の日に約束の金を渡すと言って譲りません。この場面は、混乱期に契約をどう扱うかという根本的な問いです。有利な事情変更を理由に、契約を破らないという福沢の姿勢は、現代の取引にも通用する、信用を守る原則の例です。

この章句が説くこと

新銭座屋敷売買薩摩屋敷焼き討ち約束三百五十五両契約

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