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福翁自伝 / 王政維新・地所払下(2)

その代価の事は兎も角もとして、斯く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居すればするほどいよ/\ます/\宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之を私有地にすると云えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで埓を明けた所が、果して然り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡たその時に、島原藩士何某が私方に遣て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方へ御譲渡し下されいと捩込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしや夫れさえ心得て居ない、兎に角に私は東京府から御払の地所を買請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召もあらば府庁へ御談じ然るべしと刎付ける。スルと先方も中々渋とい。再三再四遣て来て、とう/\仕舞には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云うから、是れも不承知。地所の事は島原藩と福澤と直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切万事君夫れ之を東京府に聞けと云う調子に構えて居て、六かしい談判も立消になったのは難有い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張り、時節を待て千倍にも二千倍にもして遣ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。

新字:その代価の事は兎も角もとして、斯く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居すればするほどいよ/\ます/\宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之を私有地にすると云えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで埓を明けた所が、果して然り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡たその時に、島原藩士何某が私方に遣て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方へ御譲渡し下されいと捩込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしや夫れさえ心得て居ない、兎に角に私は東京府から御払の地所を買請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召もあらば府庁へ御談じ然るべしと刎付ける。スルと先方も中々渋とい。再三再四遣て来て、とう/\仕舞には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云うから、是れも不承知。地所の事は島原藩と福沢と直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切万事君夫れ之を東京府に聞けと云う調子に構えて居て、六かしい談判も立消になったのは難有い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻ても慶応義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張り、時節を待て千倍にも二千倍にもして遣ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。

書き下し

その代価の事は兎も角もとして、斯く私が事を性急にしたのは、この屋敷に久しく住居すればするほどいよ/\ます/\宜い屋敷になって来て、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自から感心して、塾員と共に満足すると同時に、之を私有地にすると云えば何か故障の起りそうな事だと、俗に云う虫が知らせるような塩梅で、何だか気になるから無暗に急いで埓を明けた所が、果して然り、東京の諸屋敷地を払下げると云う風聞が段々世間に知れ渡たその時に、島原藩士何某が私方に遣て来て、当屋敷は由緒ある拝領屋敷なるゆえ、主人島原藩主より御払下を願う、此方へ御譲渡し下されいと捩込んで来たから、私は一切知らず、この地所のむかしが誰のものでありしや夫れさえ心得て居ない、兎に角に私は東京府から御払の地所を買請けたまでの事なれば、府の命に服従するのみ、何か思召もあらば府庁へ御談じ然るべしと刎付ける。スルと先方も中々渋とい。再三再四遣て来て、とう/\仕舞には屋敷を半折して半分ずつ持とうと云うから、是れも不承知。地所の事は島原藩と福澤と直談すべき性質のものでないから御返答は致さぬ、一切万事君夫れ之を東京府に聞けと云う調子に構えて居て、六かしい談判も立消になったのは難有い。今日になって見れば、東京中を尋ね廻ても慶應義塾の地所と甲乙を争う屋敷は一箇所もない。正味一万四千坪、土地は高燥にして平面、海に面して前に遮るものなし、空気清く眺望佳なり、義塾唯一の資産にして、今これを売ろうとしたらば、むかし御払下の原価五百何十円は、百倍でない千倍になりましょう。義塾の慾張り、時節を待て千倍にも二千倍にもして遣ろうと、若い塾員達はリキンで居ます。

現代語訳

その代価のことはともかくとして、こんなに私が事を急いだのは、この屋敷に長く住めば住むほど、ますますよい屋敷になってきて、実に東京第一、他に匹敵するものはないと自分で感心し、塾員とともに満足すると同時に、これを私有地にするというと、何か支障が起こりそうだと、俗にいう虫が知らせるような具合で、なんだか気になるので、むやみに急いで片をつけたところ、案の定でした。東京の諸屋敷地を払い下げるという風聞がだんだん世間に知れ渡った頃、島原藩士の何某が私のところにやって来て、この屋敷は由緒ある拝領屋敷なので、主人の島原藩主から払い下げを願う、こちらへ譲り渡してほしいとねじ込んできたので、私は一切知らず、この地所の昔が誰のものであったかさえ心得ていません。とにかく私は東京府から払い下げの地所を買い受けただけのことで、府の命に従うだけです、何か思し召しがあるなら府庁へご相談なさるべきでしょうと、はねつけました。すると先方もなかなかしぶとい。再三再四やって来て、とうとう最後には屋敷を半分に割って、半分ずつ持とうと言うので、これも不承知です。地所のことは島原藩と福沢が直談すべき性質のものではないから、返答はしません、一切万事、君それ之を東京府に聞け、という調子で構えていたので、難しい談判も立ち消えになったのはありがたいことです。 今日になって見れば、東京中を探し回っても、慶應義塾の地所と優劣を争う屋敷は一か所もありません。正味一万四千坪、土地は高く乾いて平らで、海に面して前に遮るものがなく、空気は清らかで眺めがよく、義塾唯一の資産であり、今これを売ろうとしたら、昔、払い下げを受けた原価五百何十円は、百倍どころか千倍になるでしょう。義塾の欲張りです。時節を待って、千倍にも二千倍にもしてやろうと、若い塾員たちは意気込んでいます。

解説

福沢は三田の払い下げを急いだ理由を、虫が知らせるとしか言えない勘のようなものだと語ります。実際、旧島原藩側の返還要求が後から来ましたが、東京府から買い受けただけだ、府に聞けと筋を一本に絞って退け、争いを避けました。交渉では、自分の立場の根拠を一つに絞ること、相手の土俵に乗らないことが効いています。土地の価値の見立ては後年の話ですが、将来の価値を見込んで早く確保した判断は、事業の資産づくりでも示唆に富みます。

この章句が説くこと

払い下げ島原藩東京府資産交渉虫の知らせ

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