福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(9)
奥平屋敷の古長屋を貰て来て、凡そ百五十坪も普請したが、入費は僅か四百両ばかりで一切仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは態々止めに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処でも家を毀わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする積りだと云うから、私は答えて、「ソリャ爾うでない、今僕が新に普請するから可笑しいように見えるけれども、去年普請をして置たらドウする。いよ/\戦争になって迯げる時にその家を担いで行かれるものでない。成程今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと云て颯々と普請をして、果して何の災もなかったのは投機商売の中たようなものです。何でも私の処で普請をした為めに、新銭座辺は余程立退きが寡かった。彼処の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越を見合せようと云て思止まった者も大分あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処かに迯げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を掘て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の椽の下に這入て居ようか、若し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州の屋敷(今の芝離宮)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に行た所が、広い庭で土手が二重に喰違いになって居る処がある。
書き下し
奥平屋敷の古長屋を貰て来て、凡そ百五十坪も普請したが、入費は僅か四百両ばかりで一切仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは態々止めに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処でも家を毀わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする積りだと云うから、私は答えて、「ソリャ爾うでない、今僕が新に普請するから可笑しいように見えるけれども、去年普請をして置たらドウする。いよ/\戦争になって迯げる時にその家を担いで行かれるものでない。成程今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと云て颯々と普請をして、果して何の災もなかったのは投機商売の中たようなものです。何でも私の処で普請をした為めに、新銭座辺は余程立退きが寡かった。彼処の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越を見合せようと云て思止まった者も大分あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処かに迯げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を掘て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の椽の下に這入て居ようか、若し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州の屋敷(今の芝離宮)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に行た所が、広い庭で土手が二重に喰違いになって居る処がある。
現代語訳
奥平屋敷の古長屋をもらってきて、およそ百五十坪も普請しましたが、費用はわずか四百両ばかりで、一切仕上げました。いよいよ普請のできたのは、その年(明治元年)四月頃と覚えています。そのとき私の友人などはわざわざ止めに来て、「今頃普請をする者があるか、どこでも家を取り壊して立ち退くという時節に、君だけ普請をしてどうするつもりだ」と言うので、私は答えて、「それはそうではない。今僕が新しく普請をするから、おかしいように見えるけれども、去年普請をしておいたらどうする。いよいよ戦争になって逃げるとき、その家を担いで行かれるものではない。なるほど今戦争になれば焼けるかもしれない、また焼けないかもしれない。たとえ焼けても、去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくない」と言って、さっさと普請をして、果たして何の災いもなかったのは、投機商売が当たったようなものです。何でも私のところで普請をしたために、新銭座辺りは余程立ち退きが少なかった。あそこで普請をするくらいだから戦争にならないだろう、まあ引っ越しを見合わせようと言って思いとどまった者も大分あったようです。けれども実は私も心の中では怖いのです。どこから焼け始まってどんなことになるか分からないと思うから、どこかに逃げる用意はしておかなければなりません。屋敷の中に穴を掘って隠れていようか、それでは雨の降るときに困る。土蔵の縁の下に入っていようか、もし大砲で撃たれると困る。どうしようかと思ううち、近所に紀州の屋敷(今の芝離宮)があって、その紀州藩から何人も生徒が来ているのを幸い、その人たちに頼んで屋敷を見に行ったところ、広い庭で土手が二重に食い違いになっている所があります。
解説
この章句が説くこと
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