福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(8)
その前に慶喜さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々様々な役人が出来た。可笑しくて堪らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処の代官に誰がなる。甚だしきに至ては逃去て来た後の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方に出来て居る。夫れから又御目附になるもあれば、御使番になるものもある。何でも加藤弘之、津田真一(真道)なども御目附か御使番かになって居たと思う。私にも御使番になれと云う。奉書到来と云う儀式で、夜中差紙が来たが、真平御免だ、私は病気で御座ると云て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方勢)が這入り込んで、ソロ/\鎮将府と云うようなものが江戸に出来て、慶喜さんは水戸の方に行くと斯うなったので、是れは慶応四年即ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝の新銭座に屋敷が買ってあったから引越さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の為めに塾舎も拵えなければならず、又私の住居も拵えなければならぬ。扨その普請の一段になった所で、江戸市中大騒動の最中、却て都合が宜い。八百八町只の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を搦げて田舎に引越すと云うような者ばかり、手廻しの宜い家では竈の銅壺まで外して仕舞て、自分は土竈を拵えて飯を焚て居る者もある。この最中に私が普請を始めた処が、大工や左官の悦びと云うものは一方ならぬ。安いにも/\、何でも飯が喰われさえすれば宜い、米の代さえあれば働くと云う訳けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。
書き下し
その前に慶喜さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々様々な役人が出来た。可笑しくて堪らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処の代官に誰がなる。甚だしきに至ては逃去て来た後の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方に出来て居る。夫れから又御目附になるもあれば、御使番になるものもある。何でも加藤弘之、津田真一(真道)なども御目附か御使番かになって居たと思う。私にも御使番になれと云う。奉書到来と云う儀式で、夜中差紙が来たが、真平御免だ、私は病気で御座ると云て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方勢)が這入り込んで、ソロ/\鎮将府と云うようなものが江戸に出来て、慶喜さんは水戸の方に行くと斯うなったので、是れは慶応四年即ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝の新銭座に屋敷が買ってあったから引越さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の為めに塾舎も拵えなければならず、又私の住居も拵えなければならぬ。扨その普請の一段になった所で、江戸市中大騒動の最中、却て都合が宜い。八百八町只の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を搦げて田舎に引越すと云うような者ばかり、手廻しの宜い家では竈の銅壺まで外して仕舞て、自分は土竈を拵えて飯を焚て居る者もある。この最中に私が普請を始めた処が、大工や左官の悦びと云うものは一方ならぬ。安いにも/\、何でも飯が喰われさえすれば宜い、米の代さえあれば働くと云う訳けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。
現代語訳
その前に、慶喜さんが東帰してきたとき、政治上の改革とでもいうのか、さまざまな役人ができました。おかしくてたまりません。新潟奉行に誰が命ぜられて、どこの代官に誰がなる。甚だしきに至っては、逃げ去ってきた後の兵庫奉行になった人さえあって、名目上の奉行だけはこちらにできている。それからまた御目付になる者もあれば、御使番になる者もある。何でも加藤弘之、津田真一郎(真道)なども、御目付か御使番かになっていたと思います。私にも御使番になれと言います。奉書到来という儀式で、夜中に差紙が来ましたが、真っ平御免だ、私は病気でございますと言って取り合いませんでした。それからだんだん切迫して、官軍(上方勢)が入り込み、そろそろ鎮将府というようなものが江戸にできて、慶喜さんは水戸のほうに行くということになり、これは慶応四年、すなわち明治元年の春からの騒ぎで、そのとき私は芝の新銭座に屋敷が買ってありましたから、引っ越さなければなりません。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つあるだけですから、生徒のために塾舎もこしらえなければならず、また私の住居もこしらえなければなりません。さてその普請の段になったところで、江戸市中大騒動の最中、かえって都合がよい。八百八町、ただの一軒でも普請をする家はありません。それどころではない、荷物を縛って田舎に引っ越すような者ばかりで、手回しのよい家では竈の銅壺まで外してしまい、自分は土竈をこしらえて飯を炊いている者もあります。この最中に私が普請を始めたところ、大工や左官の喜びは一方ならぬもので、安くてもいい、何でも飯が食えさえすればいい、米の代さえあれば働くというわけで、安い手間賃で人手はいくらでもありますから、普請はさっさとできます。その建物も新たに造るのではありません。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(9)奥平屋敷の古長屋を貰て来て、凡そ百五十坪も普請したが、入費は僅か四百両ばかりで一切仕上げました。いよ/\普請の出来たのはその年(明治元年)四月頃と覚ゆ。その時私の朋友などは態々止めに来て、「今頃普請をするものがあるか、何処でも家を毀わして立退くと云う時節に、君独り普請をしてドウする積りだと云うから、私は答えて、「ソリャ爾うでない、今僕が新に普請するから可笑しいように見えるけれども、去年普請をして置たらドウする。いよ/\戦争になって迯げる時にその家を担いで行かれるものでない。成程今戦争になれば焼けるかも知れない、又焼けないかも知れない、仮令い焼けても去年の家が焼けたと思えば後悔も何もしない、少しも惜しくないと云て颯々と普請をして、果して何の災もなかったのは投機商売の中たようなものです。何でも私の処で普請をした為めに、新銭座辺は余程立退きが寡かった。彼処の内で普請をする位だから戦争にならぬであろう、マア引越を見合せようと云て思止まった者も大分あったようだ。けれども実は私も心の中では怖いさ。何処から焼け始まってドンな事になるか知れぬと思うから、何処かに迯げる用意はして置かなければならぬ。屋敷の中に穴を掘て隠れて居ようか、ソレでは雨の降るときに困る。土蔵の椽の下に這入て居ようか、若し大砲で撃れると困る。ドウしようかと思う中に、近所に紀州の屋敷(今の芝離宮)があって、その紀州藩から幾人も生徒が来て居るを幸い、その人達に頼んで屋敷を見に行た所が、広い庭で土手が二重に喰違いになって居る処がある。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(6)扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
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福翁自伝・王政維新その歳も段々迫て、とう/\慶応三年の暮になって、世の中が物騒になって来たから、生徒も自然にその影響を蒙らなければならぬ。国に帰るもあれば方々に行くもあると云うような訳けで、学生は次第々々に少くなると同時に、今まで私の住で居た鉄砲洲の奥平の邸は、外国人の居留地になるので幕府から上地を命ぜられ、既に居留地になれば私も其処に居られなくなる。ソコで慶応三年十二月の押詰めに、新銭座の有馬と云う大名の中屋敷を買受けて、引移るや否や鉄砲洲は居留地になり、明くれば慶応四年、即ち明治元年の正月早々、伏見の戦争が始まって、将軍慶喜公は江戸へ逃げて帰り、サアそこで又大きな騒ぎになって仕舞た。即ち是れが王政維新の始まり、その時に私は少しも政治上に関係しない。抑も王政維新が政治の始まりであるから、話が少し前に戻って長くなりますけれども、一通り私が少年のときからの話をして、政治に関係しない顛末を明にしなければならぬ。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・事変の当日、約束の金を渡す(1)ソコで以て慶応三年、即ち王政維新の前年の冬、芝新銭座に有馬家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律に依ると、武家屋敷は換え屋敷を許しても売買は許さないと云うのが掟であった。所が徳川もその末年になると様々な根本的改革と云うような事が行われて、武家屋敷でも代金を以て売買勝手次第と云うことになって、新銭座の有馬の中屋敷が売物になると人の話を聞て、同じ新銭座住居の木村摂津守の用人大橋栄次と云う人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価は三百五十五両、その時の事だから買うと云た所が、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどゝ云うことのあろう訳けはない、唯売りましょう然らば則ち買いましょうと云う丈けの話で約束が出来て、その金の受取渡しは何時だと云うと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請取ろうと、チャンと約束が出来て居て、夫れから私はその前日、三百五十五両の金を揃えて風呂敷に包んで、翌早朝新銭座の木村の屋敷に行て見ると、門が締て潜戸まで鎖してある。夫れから門番に、此処を明けて呉れ、何で締めて置くかと云うと、「イーエ此処は明けられません。「明けられませんたって福澤だと云うのは、私は亜米利加行の由縁で、木村家には常に出入して家の者のようにして居たから、門番も福澤と聞て潜戸を明けて呉れたは呉れたが、何だか門前が騒々しい、ドタバタ遣て居る。何事か知らんと思て南の方を見ると、真黒な煙が立て居る。ソレで木村の玄関に上て大橋に遇て、大変騒々しいが何だと云うと、大橋がヒソ/\して、「お前さんは何も知らぬか、大変な事が出来ました、大騒動だ、酒井の人数が三田の薩州の屋敷を焼払おうと云う、ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座ると云うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった、成程ドウも容易ならぬ形勢だが、夫れは夫れとして、時にあの屋敷の金を持て来たから渡してお呉んなさいと云うと、大橋が、途方もない、屋敷どころの話じゃない、何の事だ、モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価なしだ、ソレを屋敷を買うなんてソンな馬鹿らしい事は一切罷めだ、マアそんな事を為なさるなと云て取合ぬから、私は不承知だ。ソリャ爾うでない、今日渡と云う約束だからこの金は渡さなくてはならぬと云うと、大橋は脇の方に向て、「約束したからと云て時勢に依たものだ、この大変な騒動中に屋敷を買うと云うような馬鹿気たことがあるものか。
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福翁自伝・王政維新・上野の戦争新銭座の塾は幸に兵火の為めに焼けもせず、教場もどうやらこうやら整理したが、世間は中々喧しい。明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋も皆休んで仕舞て、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業を罷めない。上野ではどん/″\鉄砲を打て居る、けれども上野と新銭座とは二里も離れて居て、鉄砲玉の飛で来る気遣はないと云うので、丁度あの時私は英書で経済の講釈をして居ました。大分騒々敷い容子だが烟でも見えるかと云うので、生徒等は面白がって梯子に登て屋根の上から見物する。何でも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、此方に関係がなければ怖い事もない。
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福翁自伝・王政維新・義塾三田に移る慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
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