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福翁自伝 / 雑記・独立敢て新事例を開く(10)

所が前申す通り榎本釜次郎と私とは刎頸の交と云う訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只仙台藩士の腰抜けを憤ったと同じ事で、幕府の奴の如何にも無気力不人情と云うことが癪に障たので、ソコでどうでも斯うでも助けて遣ろうと思て駈廻わりましたが、その節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨榎本の為めに今日はこの通りに骨を折て居るが、是れは唯人間一人の命を助けるばかりの志で外になんにも趣意はない、元来榎本と云う男は深く知らないが随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色の変た男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ、今こそ牢に這入て居るけれども、是れが助かって出るようになれば、後日或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑しいだのと云う念が兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日唯今から一切の周旋を止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至て私の云た通りになったのが面白い。榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極まって居て、一切の事情を知る者は私と妻と両人より外にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点するでしょう。

書き下し

所が前申す通り榎本釜次郎と私とは刎頸の交と云う訳けではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろう訳けもない、只仙台藩士の腰抜けを憤ったと同じ事で、幕府の奴の如何にも無気力不人情と云うことが癪に障たので、ソコでどうでも斯うでも助けて遣ろうと思て駈廻わりましたが、その節、毎度妻と話をして今でも覚えて居ます、私の申すに、扨榎本の為めに今日はこの通りに骨を折て居るが、是れは唯人間一人の命を助けるばかりの志で外になんにも趣意はない、元来榎本と云う男は深く知らないが随分何かの役に立つ人物に違いはない、少し気色の変た男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ、今こそ牢に這入て居るけれども、是れが助かって出るようになれば、後日或は役人になるかも知れぬ、その時は例の通りの殿様風でぴん/\するような事があるかも知れない、その時になって殿様のぴん/\を見たり聞たりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの可笑しいだのと云う念が兎の毛ほども腹の底にあっては、是れは榎本の悪いのでなく此方の卑劣と云うものだから、そんな事なら私は今日唯今から一切の周旋を止めるがドウだと妻に語れば、妻も私と同説で、左様な浅ましい卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至て私の云た通りになったのが面白い。榎本が段々立身して公使になったり大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦の名人のようだけれども、私の処にはチャント説が極まって居て、一切の事情を知る者は私と妻と両人より外にないから、榎本がドウなろうと私の家で噂をする者もない、子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点するでしょう。

現代語訳

ところで、前に申したとおり、榎本釜次郎と私とは刎頸の交わりというわけではなく、そんなに力を入れるほどの親切があるはずもありません。ただ仙台藩士の腰抜けを憤ったのと同じことで、幕府の奴らのいかにも無気力で不人情なことが癪に障ったので、どうでもこうでも助けてやろうと思って駆け回りました。その折、たびたび妻と話をして、今でも覚えています。私が言うには、さて榎本のために今日はこのように骨を折っているが、これはただ人間ひとりの命を助けるばかりの志で、ほかには何の趣意もない。元来、榎本という男は深くは知らないが、ずいぶん何かの役に立つ人物に違いない。少し風変わりな男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人だから殿様好きだ。今こそ牢に入っているけれども、これが助かって出るようになれば、後日あるいは役人になるかもしれない。その時は例のとおりの殿様風でぴんぴんするようなことがあるかもしれない。その時になって、殿様のぴんぴんを見たり聞いたりして、やれ昔を忘れて厚かましいだの、おかしいだのという気持ちが兎の毛ほども腹の底にあっては、これは榎本の悪いのではなく、こちらの卑劣というものだから、そんなことなら私は今日ただ今から一切の周旋をやめるが、どうだ、と妻に語ると、妻も私と同じ意見で、そのようなあさましい卑しい考えは決してありませんと言って、夫婦固く約束したことがあります。後日に至って私の言ったとおりになったのが面白い。榎本がだんだん立身して、公使になったり大臣になったりして、立派な殿様になったのは、私が占い八卦の名人のようですが、私のところにはちゃんと説が決まっていて、一切の事情を知る者は私と妻の両人のほかにはいないので、榎本がどうなろうと私の家で噂をする者もありません。子供などは、今度のこの速記録を見て初めて合点するでしょう。

解説

助けた相手が、のちに出世して偉そうにしても恨まない。福沢は妻と、助ける前にそう約束しました。恩を着せない純粋な志を、あらかじめ夫婦で確認しているのが見事です。榎本は後に駐露公使や大臣を務める立身を遂げましたが、福沢の家ではそれを話題にすることもなかったといいます。人に尽くしたあとの見返りを期待しない覚悟は、与える側の自己管理でもあります。善意が後で不満に変わらないよう、始める前に自分の心を決めておく方法として参考になります。

この章句が説くこと

榎本武揚刎頸の交志妻との約束見返り卑劣

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