福翁自伝 / 雑記・路傍の人の硬軟を試る(1)
夫れから又斯う云う面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州三田藩の九鬼と云う大名は兼て懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にも行て見たし、かた/″\先ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで凡そ十五里、途中名塩に一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば何時でも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛して呉れるから、大阪に着くと取敢えず緒方に行て、三田に遊び有馬に行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠を貸して遣ろうと云われるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠に好い時候で、私はパッチを穿て羽織か何か着て蝙蝠傘を持て、駕籠に乗て行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠は要らぬ、駕籠屋、先へ行け、乃公は一人で行くからと云て、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に向て道を聞たら、そのとき私の素振りが何か横風で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えて呉れてお辞儀をして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持て居るものは蝙蝠傘一本きりで何にもない、も一度遣て見ようと思うて、その次ぎに来る奴に向て怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数は凡そ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝ下らぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答申上げますと云うような様子だ。
書き下し
夫れから又斯う云う面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州三田藩の九鬼と云う大名は兼て懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いと云う話もあり、私もその節病後の身で有馬の温泉にも行て見たし、かた/″\先ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで凡そ十五里、途中名塩に一泊する積りにして、ソコで大阪に行けば何時でも緒方の家を訪問しないことはない、故先生は居ないでも未亡夫人が私を子のようにして愛して呉れるから、大阪に着くと取敢えず緒方に行て、三田に遊び有馬に行くことなども話しました所が、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠を貸して遣ろうと云われるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠に好い時候で、私はパッチを穿て羽織か何か着て蝙蝠傘を持て、駕籠に乗て行くつもりであったが、少し歩いて見るとなか/\歩ける。「コリャ駕籠は要らぬ、駕籠屋、先へ行け、乃公は一人で行くからと云て、たった一人で供もなければ連れもない、話相手がなくて面白くない所から、何でも人に逢うて言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に向て道を聞たら、そのとき私の素振りが何か横風で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒らかったと見える、するとその百姓が誠に丁寧に道を数えて呉れてお辞儀をして行く、こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持て居るものは蝙蝠傘一本きりで何にもない、も一度遣て見ようと思うて、その次ぎに来る奴に向て怒鳴り付け、「コリや待て、向うに見える村は何と申す村だ、シテ村の家数は凡そ何軒ある、あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何と申すなどゝ下らぬ事をたゝみ掛けて士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答申上げますと云うような様子だ。
現代語訳
それからまた、こういう面白いことがありました。明治四年のころです。摂州三田藩の九鬼という大名は、かねて懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いという話もあり、私もそのころ病後の身で有馬の温泉にも行ってみたいし、かたがたまず大阪まで出かけ、大阪から三田までおよそ十五里、途中名塩に一泊するつもりでした。大阪に行けばいつでも緒方の家を訪問しないことはありません。故先生は亡くなっていますが、未亡人が私を子のように愛してくださるので、大阪に着くととりあえず緒方に行き、三田に遊び有馬に行くことなどを話しました。すると、私は病後でどうも歩けそうにない、駕籠を貸してやろうと言われるので、その駕籠をかつがせて大阪を出発しました。時は旧暦の三、四月、まことによい時候で、私はパッチをはいて羽織か何かを着、蝙蝠傘を持ち、駕籠に乗って行くつもりでしたが、少し歩いてみるとなかなか歩けます。「これは駕籠はいらぬ。駕籠屋、先へ行け、俺はひとりで行くから」と言って、たったひとりで、供もなければ連れもない。話し相手がなくて面白くないので、なんでも人に会って言葉を交わしてみたいと思い、道の向こうから来る百姓のような男に道を聞いたところ、そのときの私の素振りが何か横柄で、昔の士族の正体が現れて言葉も荒かったとみえ、その百姓がまことに丁寧に道を教えてくれて、お辞儀をして行きました。これは面白いと思い、自分の身を見れば持っているものは蝙蝠傘一本きりで何もない。もう一度やってみようと思って、その次に来る者に向かって怒鳴りつけました。「こら待て、向こうに見える村は何という村だ。その村の家数はおよそ何軒ある。あの瓦屋根の大きな家は百姓か町人か、主人の名は何という」などと、くだらぬことをたたみかけて、士族丸出しの口調で尋ねると、その男は道の側に小さくなって、恐れながらお答え申し上げますという様子でした。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・雑記・路傍の人の硬軟を試る(2)此方はます/\面白くなって、今度は逆に遣て見ようと思付き、又向うから来る奴に向て、「モシモシ憚りながら一寸ものをお尋ね申しますと云うような口調に出掛けて、相替らず下らぬ問答を始め、私は大阪生れで又大阪にも久しく寄留して居たから、その時には大抵大阪の言葉も知て居たから、都て奴の調子に合せてゴテ/\話をすると、奴は私を大阪の町人が掛取にでも行く者と思うたか、中々横風でろくに会釈もせずに颯々と別れて行く、底で今度は又その次ぎの奴に横風をきめ込み、又その次ぎには丁寧に出掛け、一切先方の面色に取捨なく誰でも唯向うから来る人間一匹ずつ一つ置きと極めて遣て見た所が、凡そ三里ばかり歩く間、思う通りに成たが、ソコデ私の心中は甚だ面白くない。如何にも是れは仕様のない奴等だ、誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風ならば横風で可し、斯う何うも先方の人を見て自分の身を伸縮するような事では仕様がない、推して知るべし地方小役人等の威張るのも無理はない、世間に圧制政府と云う説があるが、是れは政府の圧制ではない人民の方から圧制を招くのだ、之を何うして呉れようか、捨てようと云て固より見捨てられる者でない、左ればとて之を導いて俄に教えようもない、如何に百千年来の余弊とは云いながら、無教育の土百姓が唯無闇に人に詫るばかりなら宜しいが、先き次第で驕傲になったり柔和になったり、丸でゴムの人形見るようだ、如何にも頼母しくないと大に落胆したことがあるが、変れば変る世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民と成て学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を軽んじて国の為めに水火にも飛込む。福澤が蝙蝠傘一本で如何に士族の仮色を使うても、之に恐るゝ者は全国一人もあるまい。是れぞ文明開化の賜でしょう。
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福翁自伝・暗殺の心配・箱根の心配・中村栗園先生の門を素通りソレから船は大阪に着て上陸、東海道をして箱根に掛り、峠の宿の破不屋と云う宿屋に泊ると、奥の座敷に戸田何某と云う人が江戸の方から来て先きに泊て居る。この人は当時、山陵奉行とか云う京都の御用を勤めて居て、供の者も大勢附て居る様子、問わずと知れた攘夷の一類と推察して気味が悪い、終夜ろくに寝もせず、夜の明ける前に早々宿屋を駈出してコソ/\逃げたことがある。 その時の道中であったか、江州水口、中村栗園先生の門前を素通りしましたが、是れは甚だ気に済まぬ。栗園の事は前にも申す通り私の家と浅からぬ縁のある人で、前年、私が始めて江戸に出るとき水口を通行して其処へ尋ねた所が、先生は非常に喜んで、過ぎし昔の事共を私に話して聞かせ、「お前の御親父の大阪で御不幸の時は、私は直ぐ大阪に行て、ソレからお前達が船に乗て中津に帰るその時には、私がお前を抱いて安治川口の船まで行て別れた。そのときお前は年弱の三つで、何も知らなかろうなどゝ云う話で、私も実にほんとうの親に逢たような心持がして、今晩は是非泊れと云て、中村の家に一泊しました。斯くまでの間柄であるから、今度も是非とも訪問しなければならぬ。所がその前に人の噂を聞けば、水口の中村先生は近来専ら孫子の講釈をして、玄関には具足などが飾てあると云う、問うに及ばず立派な攘夷家である、人情としては是非とも立寄て訪問せねばならぬが、ドウも寄ることが出来ぬ。栗園先生は頼んでも私を害する人ではないが、血気の門弟子が沢山居るから、立寄れば迚も助からぬと思て、不本意ながらその門前を素通りしました。その後先生には面会の機会がなくて、遂に故人になられました。今日に至るまでも甚だ心残りで不愉快に思います、
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福翁自伝・長崎遊学・贋手紙を作るその間の道中と云うものは随分困りました。一人旅、殊に何処の者とも知れぬ貧乏そうな若侍、若し行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、只泊めて呉れさえすれば宜しいと云うので無暗に歩行いて、何か斯か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いて即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて、「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入して決して間違なき御方だから厚く頼むと鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡てこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどり付て泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、何処でも泊めない。ヤット一軒泊めて呉れた所が薄汚ない宿屋で、相宿の同間に人が寝て居る。スルト夜半に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんに遣てる。実は客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて堪らなかったのは能く覚えて居ます。 それから下ノ関の渡場を渡て、船場屋を捜し出して、兼て用意の贋手紙を持て行た所が、成程鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めて呉れて、万事能く世話をして呉れて、大阪まで船賃が一分二朱、賄の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。併し大阪に行けば中津の倉屋敷で賄の代を払う事にして、是れも船宿で心能く承知して呉れる。悪い事だが全く贋手紙の功徳でしょう。
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福翁自伝・長崎遊学・大阪着大阪に着て久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼ない時から私を知てる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰て二十二歳に再び行たのですから、私の生れた時に知てる者は沢山。私の面が何処か幼顔に肖て居ると云うその中には、私に乳を呑まして呉れた仲仕の内儀さんもあれば、又今度兄の供をして中津から来て居る武八と云う極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着た翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の処を通ると、男の云うに、お前の生れる時に我身夜中にこの横町の彼の産婆さんの処に迎いに行たことがある、その産婆さんは今も達者にし居る、それからお前が段々大きくなって、此身お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行た、その産婆さんの家は彼処じゃ湊の稽古場は此処の方じゃと、指をさして見せたときには、私も旧を懐うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。都て如斯な訳けで私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰た通りで誠に宜い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けに此処に来たのかという。兄の事であるから構わず斯う云う次第で参りましたと云たら、「乃公が居なければ宜いが、道の順序を云て見れば貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの処を避て来たではないか。それも乃公が此処に居なければ兎も角、乃公が此処で貴様に面会しながら之を手放して江戸に行けと云えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんは夫程に思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ、大阪で蘭学を学ぶが宜いと云うので、兄の処に居て先生を捜したら緒方と云う先生のある事を聞出した。
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福翁自伝・大阪修業・緒方先生の深切夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹と診て遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞う。此の薬彼の薬と迷うて、後になって爾うでもなかったと云て又薬の加減をすると云うような訳けで、仕舞には何の療治をしたか訳けが分らぬようになると云うのは人情の免れぬ事であるから、病は診て遣るが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れと云て、先生の朋友、梶木町の内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰て、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚も手に及ばない事で、その師弟の間は自から公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授るに迷うと云うのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じ事で、その扱は実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べて見て大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い又思わずには居られません。ソレカラ唯今申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩い付て四、五日目から人事不省、凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生身体の強壮なその為めでしょう、恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄は僂麻質斯を煩て居り、私は熱病の大病後である、如何にも始末が付かない。
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福翁自伝・緒方の塾風・裸体の奇談失策裸体の事に就て奇談がある。或る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思付に、この酒を彼の高い物干の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出そうとした処が、物干の上に下婢が三、四人涼んで居る。是れは困た、今彼処で飲むと彼奴等が奥に行て何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州生に松岡勇記と云う男がある。至極元気の宜い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に彼の女共を物干から逐払て見せようと云いながら、真裸体で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向きに大の字なりに成て倒れた。この風体を見ては流石の下婢も其処に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆下りて仕舞た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと云う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲だことがある。 又或るとき是れは私の大失策、或る夜私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。夫れから真裸体で飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何うにも斯うにも逃げようにも逃げられず、真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置処がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込で仕舞た。翌朝御託に出て昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭末代御挨拶なしに済で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行て緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。
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