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福翁自伝 / 緒方の塾風・裸体の奇談失策

裸体の事に就て奇談がある。或る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思付に、この酒を彼の高い物干の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出そうとした処が、物干の上に下婢が三、四人涼んで居る。是れは困た、今彼処で飲むと彼奴等が奥に行て何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州生に松岡勇記と云う男がある。至極元気の宜い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に彼の女共を物干から逐払て見せようと云いながら、真裸体で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向きに大の字なりに成て倒れた。この風体を見ては流石の下婢も其処に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆下りて仕舞た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと云う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲だことがある。 又或るとき是れは私の大失策、或る夜私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。夫れから真裸体で飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何うにも斯うにも逃げようにも逃げられず、真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置処がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込で仕舞た。翌朝御託に出て昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭末代御挨拶なしに済で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行て緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。

新字:裸体の事に就て奇談がある。或る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思付に、この酒を彼の高い物干の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出そうとした処が、物干の上に下婢が三、四人涼んで居る。是れは困た、今彼処で飲むと彼奴等が奥に行て何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州生に松岡勇記と云う男がある。至極元気の宜い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に彼の女共を物干から逐払て見せようと云いながら、真裸体で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向きに大の字なりに成て倒れた。この風体を見ては流石の下婢も其処に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆下りて仕舞た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと云う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲だことがある。 又或るとき是れは私の大失策、或る夜私が二階に寝て居たら、下から女の声で福沢さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。夫れから真裸体で飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何うにも斯うにも逃げようにも逃げられず、真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置処がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込で仕舞た。翌朝御託に出て昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭末代御挨拶なしに済で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行て緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。

書き下し

裸体の事に就て奇談がある。或る夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思付に、この酒を彼の高い物干の上で飲みたいと云うに、全会一致で、サア屋根づたいに持出そうとした処が、物干の上に下婢が三、四人涼んで居る。是れは困た、今彼処で飲むと彼奴等が奥に行て何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃと云う中に、長州生に松岡勇記と云う男がある。至極元気の宜い活溌な男で、この松岡の云うに、僕が見事に彼の女共を物干から逐払て見せようと云いながら、真裸体で一人ツカ/\と物干に出て行き、お松どんお竹どん、暑いじゃないかと言葉を掛けて、そのまゝ傾向きに大の字なりに成て倒れた。この風体を見ては流石の下婢も其処に居ることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして皆下りて仕舞た。すると松岡が物干の上から蘭語で上首尾早く来いと云う合図に、塾部屋の酒を持出して涼しく愉快に飲だことがある。 又或るとき是れは私の大失策、或る夜私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲で今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。夫れから真裸体で飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何うにも斯うにも逃げようにも逃げられず、真裸体で座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置処がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込で仕舞た。翌朝御託に出て昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭末代御挨拶なしに済で仕舞た事がある。是ればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行て緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。

現代語訳

裸のことについて奇談があります。ある夏の夕方、私たち五、六人の中で飲む酒が手に入りました。すると一人が、この酒をあの高い物干しの上で飲みたいと言い、全会一致で、さあ屋根伝いに持ち出そうとしたところ、物干しの上に下女が三、四人涼んでいます。これは困った、今あそこで飲むと、あいつらが奥へ行って何かしゃべるに違いない、邪魔な奴だと言っているうちに、長州生に松岡勇記という男がありました。至って元気のよい活発な男で、この松岡が言うには、「僕が見事にあの女たちを物干しから追い払って見せよう」と言いながら、真っ裸で一人ずかずかと物干しに出て行き、「お松どん、お竹どん、暑いじゃないか」と言葉を掛けて、そのまま仰向きに大の字になって倒れました。この風体を見ては、さすがの下女もそこにいることができず、気の毒そうな顔をしてみな下りてしまいました。すると松岡が物干しの上から、オランダ語で「上首尾、早く来い」という合図をしたので、塾部屋の酒を持ち出して、涼しく愉快に飲んだことがあります。 またある時、これは私の大失策ですが、ある夜、私が二階に寝ていたら、下から女の声で「福沢さん、福沢さん」と呼びます。私は夕方酒を飲んで今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼ばれれば起きなければなりません。それから真っ裸で飛び起きて、階段を飛び下り、何の用だと威張ってやろうとしたところ、案に相違して、下女ではなく奥さんでした。どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真っ裸で座ってお辞儀もできず、進退窮まって実に身の置き所がありません。奥さんも気の毒だと思われたのか、物も言わずに奥のほうに引っ込んでしまいました。翌朝、お詫びに出て、昨夜はまことに失礼いたしましたと述べるわけにもいかず、ついに末代までご挨拶なしで済んでしまったことがあります。これだけは生涯忘れることができません。先年も大阪に行って緒方の家を訪ね、この階段の下だったと四十年前のことを思い出し、独り心の中で赤面しました。

解説

適塾の裸の逸話が二つ並びます。一つは松岡勇記が真っ裸で物干しに出て、下女を追い払い、酒盛りを成功させた機転。もう一つは、福沢自身が、下女と思って裸で飛び出した相手が奥さんだったという大失策です。しかも四十年後に大阪を訪ねて、その階段を見て赤面したと書きます。恥ずかしい失敗を生涯忘れられないほどの記憶として笑い話にできるのは、自己を客観視できる強さです。失敗談を共有できる関係は、組織の風通しの良さにもつながります。

この章句が説くこと

裸体物干し失策奥さん赤面失敗談

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