福翁自伝 / 大阪修業・緒方先生の深切
夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹と診て遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞う。此の薬彼の薬と迷うて、後になって爾うでもなかったと云て又薬の加減をすると云うような訳けで、仕舞には何の療治をしたか訳けが分らぬようになると云うのは人情の免れぬ事であるから、病は診て遣るが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れと云て、先生の朋友、梶木町の内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰て、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚も手に及ばない事で、その師弟の間は自から公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授るに迷うと云うのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じ事で、その扱は実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べて見て大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い又思わずには居られません。ソレカラ唯今申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩い付て四、五日目から人事不省、凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生身体の強壮なその為めでしょう、恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄は僂麻質斯を煩て居り、私は熱病の大病後である、如何にも始末が付かない。
書き下し
夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹と診て遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞う。此の薬彼の薬と迷うて、後になって爾うでもなかったと云て又薬の加減をすると云うような訳けで、仕舞には何の療治をしたか訳けが分らぬようになると云うのは人情の免れぬ事であるから、病は診て遣るが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れと云て、先生の朋友、梶木町の内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰て、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚も手に及ばない事で、その師弟の間は自から公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授るに迷うと云うのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じ事で、その扱は実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べて見て大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い又思わずには居られません。ソレカラ唯今申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩い付て四、五日目から人事不省、凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生身体の強壮なその為めでしょう、恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄は僂麻質斯を煩て居り、私は熱病の大病後である、如何にも始末が付かない。
現代語訳
それから、私が今でも忘れないことというのは、緒方先生の親切です。先生はこうおっしゃいました。「俺はお前の病気をきっと診てやる。診てやるけれども、俺が自分で処方することはできない。どうしても迷ってしまう。この薬かあの薬かと迷い、あとになってそうでもなかったと言って、また薬の加減をする、というふうで、しまいには何の治療をしたのか訳が分からなくなる。それは人情として免れないことだから、病は診てやるが、匙を執るのは他の医者に頼む。そのつもりでいなさい。」そう言って、先生の友人で梶木町の内藤数馬という医者に治療を託し、内藤の家から薬をもらって、先生はただ毎日来て容体を診、病中の養生法を指図するだけでした。 今日の学校や学塾というものは、人数も多くとても手が回らないことで、師弟の間は自然と公的なものになっています。けれども昔の学塾の師弟は、まさに親子のようなもので、緒方先生が私の病を診て、どうも薬を授けるのに迷うと言うのは、自分の家の子供を治療してやるのに迷うのと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様でした。後世になって世が開け進んだら、こんなことはなくなってしまうでしょう。私が緒方の塾にいた時の心持ちは、今の日本国中の塾生と比べて、たいへん違います。私は本当に緒方の家の者のように思い、また思わずにはいられません。 それから今申した通り、実の父同様の緒方先生が立ち会い、内藤数馬先生が治療を受け持って、ありったけの療治をしてもらいましたが、私の病気もなかなか軽くない。病みついて四、五日目から人事不省になり、およそ一週間ばかりは何も知らないほどの容体でしたが、幸いに全快しました。衰弱はしていましたけれども、年は若く、普段から身体が強壮だったためでしょう、回復はなかなか早い。もう四月になったら外に出て歩くようになりました。その間に兄はリウマチを患っており、私は熱病の大病後で、どうにも始末が付きません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・大阪修業・兄弟共に病気ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々茲に大なる不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯に罹り病症が甚だ軽くない。トウ/\手足も叶わぬと云う程になって、追々全快するが如く全快せざるが如くして居る間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持て書くと云うような容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予て世話になって居た加州の岸直輔と云う人が、腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六と云う者があって、是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送て遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日の火葬場に持て行て焼て、骨を本国に送り、先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩い付た。容体がドウも只の風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰た所が、是れは腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと云て居る間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云う。
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(1)凡そ斯う云う風で、外に出ても亦内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸と一目見た所では――今までの話だけを開た所では、如何にも学問どころの事ではなく唯ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処の一段に至ては決して爾うでない。学問勉強と云うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩うて幸に全快に及んだが、病中は括枕で坐蒲団か何かを括って枕にして居たが、追々元の体に恢復して来た所で、只の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人あるその家来に、只の枕をして見たいから持て来いと云たが、枕がない、どんなに捜してもないと云うので、不図思付いた。是れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻りに書を読んで居る。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突臥して眠るか、或は床の間の床側を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度もしたことがない。その時に始めて自分で気が付て、「成程枕はない筈だ、是れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵趣が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡そ勉強と云うことに就ては実にこの上に為ようはないと云う程に勉強して居ました。
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福翁自伝・大阪修業・先生の大恩、緒方の食客となる船中無事大阪に着たのは宜しいが、唯生きて身体が着た計りで、扨て修業をすると云う手当は何もない。ハテ如何したものかと思た所が仕方がない。何しろ先生の処へ行てこの通り言おうと思て、夫から、大阪着はその歳の十一月頃と思う、その足で緒方へ行て、「私は兄の不幸、斯う/\云う次第で又出て参りましたと先ず話をして、夫から私は先生だからほんとうの親と同じ事で何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売払うた事から、一切万事何もかも打明けて、彼の原書写本の一条まで真実を話して、「実は斯う云う築城書を盗写してこの通り持て参りましたと云た所が、先生は笑て、「爾うか、ソレは一寸との間に怪しからぬ悪い事をしたような又善い事をしたような事じゃ。何は扨置き貴様は大造見違えたように丈夫になった。「左様で御在ます。身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時の事はモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました。「それは結構だ。ソコデお前は一切聞て見ると如何しても学費のないと云うことは明白に分ったから、私が世話をして遣りたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宜くない。待て/\。その原書は面白い。就ては乃公がお前に云付けてこの原書を訳させると、斯う云うことに仕よう、そのつもりで居なさいと云て、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生と云うのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくて只飜訳と云う名義で医家の食客生になって居るのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に飜訳はしてもしなくても宜いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を飜訳して仕舞いました。
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福翁自伝・大阪修業・兄弟中津に帰るその中に丁度兄の年期と云うものがあって、二ヶ年居れば国に帰ると云う約束で、今年の夏が二年目になり、私も亦病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、兎に角に帰国が宜かろうと云うので、兄弟一緒に船に乗て中津に帰ったのがその歳の五、六月頃と思う。所が私は病後ではあるが日々に恢復して、兄の僂麻質斯も全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。夫れでは私は又大阪に参りましょうと云て出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは云われませぬ、中々元気が能くて、大阪に着たその時に、私は中津屋敷の空長屋を借用して独居自炊、即ち土鍋で飯を焚て喰て、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学して居ました。
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(2)それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
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福翁自伝・大阪修業兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をした所は楢林と云う和蘭通詞の家、同じく楢林と云う医者の家、それから石川桜所と云う蘭法医師、この人は長崎に開業して居て立派な門戸を張て居る大家であるから、中々入門することは出来ない。ソコで其処の玄関に行て調合所の人などに習って居たので、爾う云うように彼方此方にちょい/\と教えて呉れるような人があれば其処へ行く。何処の何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読だと云うことはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのは是れが本当に蘭学修業の始まり、始めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宜い方であったと思う。
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