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福翁自伝 / 雑記・百姓に乗馬を強ゆ

相手は壮士ばかりでない、唯の百姓町人に対しても色々試みた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、七里ヶ浜を通るとき、向うから馬に乗て来る百姓があって、私共を見るや否や馬から飛下りたから、私が咎めて、「是れ、貴様は何だと云て、馬の口を押えて止めると、百姓が怖わそうな顔をして頻りに詫るから、私が、「馬鹿云え、爾うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分が乗たら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ打撲るぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せて遣りましたが、その時私の心の中で独り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のない計りで物が分らずに法律のあることも知らない。下々の人民がこんなでは仕方がないと余計な事を案じた事がある。

書き下し

相手は壮士ばかりでない、唯の百姓町人に対しても色々試みた事がある。その頃私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、七里ヶ浜を通るとき、向うから馬に乗て来る百姓があって、私共を見るや否や馬から飛下りたから、私が咎めて、「是れ、貴様は何だと云て、馬の口を押えて止めると、百姓が怖わそうな顔をして頻りに詫るから、私が、「馬鹿云え、爾うじゃない、この馬は貴様の馬だろう「ヘイ「自分の馬に自分が乗たら何だ、馬鹿な事するな、乗て行けと云ても中々乗らない。「乗らなけりゃ打撲るぞ、早く乗て行け、貴様は爾う云う奴だからいけない。今政府の法律では百姓町人、乗馬勝手次第、誰が馬に乗て誰に逢うても構わぬ、早く乗て行けと云て、無理無体に乗せて遣りましたが、その時私の心の中で独り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ、この百姓等が教育のない計りで物が分らずに法律のあることも知らない。下々の人民がこんなでは仕方がないと余計な事を案じた事がある。

現代語訳

相手は壮士ばかりではありません。ただの百姓や町人に対しても、いろいろ試みたことがあります。そのころ私が子供を連れて江ノ島や鎌倉に遊び、七里ヶ浜を通るとき、向こうから馬に乗って来る百姓がいて、私たちを見るやいなや馬から飛び下りたので、私がとがめて、「これ、貴様は何だ」と言って、馬の口を押さえて止めると、百姓が怖そうな顔をしてしきりに詫びます。私は言いました。「馬鹿を言え、そうじゃない。この馬は貴様の馬だろう。」「へい。」「自分の馬に自分が乗って何が悪い。馬鹿なことをするな、乗って行けと言っても、なかなか乗りません。「乗らなければ殴るぞ、早く乗って行け。貴様はそういう奴だからいけない。今の政府の法律では、百姓町人は乗馬勝手次第、誰が馬に乗って誰に会っても構わない。早く乗って行け。」と言って、無理やりに乗せてやりました。そのとき私は心の中でひとり思いました。古来の習慣は恐ろしいものだ。この百姓らが、教育がないばかりに物が分からず、法律のあることも知らない。下々の人民がこんなでは仕方がない、と余計なことを案じたことがあります。

解説

江戸時代、百姓や町人は武士に出会うと馬から下りるのが習いでした。明治の新法で乗馬は自由になりましたが、百姓は習慣のまま飛び下りて詫びる。福沢は、乗れと脅して乗せるという、ちぐはぐな方法で新しい世を教えようとします。そして古い習慣の根深さと、教育がなければ法も届かないことを思い知ります。制度を変えても、人の行動は自動では変わりません。新しいルールを導入した後、それが現場に浸透しているかを確かめる大切さが見えてきます。

この章句が説くこと

乗馬百姓古来の習慣法律教育明治

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