福翁自伝 / 雑記・和田与四郎壮士を挑む
明治四年、新銭座から今の三田に移転した当分の事と思う、或日和田義郎(今は故人になりました)と云う人が、思切た戯をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も亦舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、殊に柔術は最も得意で、所謂怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、芝の松本町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと遣て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避けて左右に道を開くか、何か咎め立てして喰て掛るか、爰が喧嘩の間一髪、いよ/\掛て来れば五人でも十人でも投り出して殺して仕舞うと云う意気込が、先方の若武者共に分たか、何にも云わずに避けて通たと云う。大道で小便とは今から考えれば随分乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が却て塾の独立を保つ為めになりました。
新字:明治四年、新銭座から今の三田に移転した当分の事と思う、或日和田義郎(今は故人になりました)と云う人が、思切た戯をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶応義塾幼椎舎の舎長として性質極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も亦舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、殊に柔術は最も得意で、所謂怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、芝の松本町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと遣て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避けて左右に道を開くか、何か咎め立てして喰て掛るか、爰が喧嘩の間一髪、いよ/\掛て来れば五人でも十人でも投り出して殺して仕舞うと云う意気込が、先方の若武者共に分たか、何にも云わずに避けて通たと云う。大道で小便とは今から考えれば随分乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が却て塾の独立を保つ為めになりました。
書き下し
明治四年、新銭座から今の三田に移転した当分の事と思う、或日和田義郎(今は故人になりました)と云う人が、思切た戯をして壮士を驚かしたことがある。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として性質極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒も亦舎長夫婦を実の父母のように思うと云う程の人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸に志して体格も屈強、殊に柔術は最も得意で、所謂怖いものなしと云う武士であるが、一夕例の丸腰で二、三人連れ、芝の松本町を散歩して行くと、向うから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭しと遣て来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避けて左右に道を開くか、何か咎め立てして喰て掛るか、爰が喧嘩の間一髪、いよ/\掛て来れば五人でも十人でも投り出して殺して仕舞うと云う意気込が、先方の若武者共に分たか、何にも云わずに避けて通たと云う。大道で小便とは今から考えれば随分乱暴であるが、乱世の時代には何でもない、こんな乱暴が却て塾の独立を保つ為めになりました。
現代語訳
明治四年、新銭座から今の三田に移転した当分のことと思いますが、ある日、和田義郎(今は故人になりました)という人が、思い切った戯れをして壮士たちを驚かせたことがあります。この人は後に慶應義塾幼稚舎の舎長となり、性質きわめて温和で、大勢の幼い生徒を実の子のように優しく扱い、生徒もまた舎長夫婦を実の父母のように思うほどの人物でしたが、もとは和歌山藩の士族で、少年のときから武芸に志し、体格も屈強、ことに柔術はもっとも得意で、いわゆる怖いものなしという武士でした。ある晩、例の丸腰で二、三人連れ、芝の松本町を散歩していくと、向こうから大勢の壮士が長い大小を差して、大道狭しとやって来ます。すると和田が小便をしながら往来の真ん中を歩いて行きました。さあ、この小便を避けて左右に道を開くか、何か咎め立てして食ってかかるか、ここが喧嘩の間一髪、いよいよ掛かって来れば五人でも十人でも投げ出して殺してしまうという意気込みが、先方の若武者たちにも分かったのか、何も言わずに避けて通ったそうです。大道で小便とは今から考えればずいぶん乱暴ですが、乱世の時代にはなんでもありません。こんな乱暴がかえって塾の独立を保つためになりました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・王政維新・敬礼を止める(1)引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、
-
福翁自伝・王政維新・義塾三田に移る慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
-
福翁自伝・緒方の塾風・弁天小僧それから一度は斯う云う事があった。私と先輩の同窓生で久留米の松下元芳と云う医者と二人連で、御霊と云う宮地に行て夜見世の植木を冷かしてる中に、植木屋が、「旦那さん悪さをしてはいけまへんと云たのは、吾々の風体を見て万引をしたと云う意味だから、サア了簡しない。丸で弁天小僧見たように拈繰返した。「何でもこの野郎を打殺して仕舞え。理屈を云わずに打殺して仕舞えと私が怒鳴る。松下は慰めるような風をして、「マア殺さぬでも宜いじゃないか。「ヤア面倒だ、一打に打殺して仕舞うから止めなさんなと、夫れ是れする中に往来の人は黒山のように集まって大混雑になって来たから、此方は尚お面白がって威張て居ると、御霊の善哉屋の餅搗か何かして居る角力取が仲裁に這入て来て、「どうか宥して遣て下さいと云うから、「よし貴様が中に這入れば宥して遣る。併し明日の晩此処に見世を出すと打殺して仕舞うぞ。折角中に這入たから今夜は宥して遣るからと云て、翌晩行て見たら、正直な奴だ、植木屋の処だけ土場見世を休んで居た。今のように一寸も警察と云うものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪い事をしない、一寸この植木見世位の話で実のある悪事は決してしない。
-
福翁自伝・王政維新・塾の始末に困る、楽書無用夫れはそれとして又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦て漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘塾に来たと云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘の大小を挟して、鉄砲こそ持たないが今にも斬て掛ろうと云うような恐ろしい顔色をして居る。爾うかと思うとその若武者が紅い女の着物を着て居る。是れはドウしたのかと云うと、会津で分捕りした着物だと云て威張て居る。実に血腥い怖い人物で、一見先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極めて簡単な塾則を拵えて、塾中金の貸借は一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰うときには定めの時間に食堂に出る、夫れから楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論、自分所有の行灯にも机にも一切の品物に楽書は相成らぬと云うくらいの箇条で、既に規則を極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以て其処だけ切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付ける。夫れから行灯に書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎めると、時としてはその者が、「是れは自分でない、人の書たのですと云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張て置きなさいと云うようにして、寸毫も仮さない。如何に血腥い若武者が何と云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付けて遣る。名は忘れたが、不図見た所が桐の枕に如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀わすから代りを取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰して、サアどうでもしろ、攫み掛て来るなら相手になろうと云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫み掛りそうな気色で、口の法螺でなくして身体の法螺で吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥い奴も自から静になって塾の治まりが付き、その中には真成な大人しい学者風の少年も多く、至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座に居ました。
-
福翁自伝・暗殺の心配・疑心暗鬼互に走る(2)「コリャ困た、今から引返すと却て引身になって追駈けられて後から遣られる、寧そ大胆に此方から進むに若かず、進むからには臆病な風を見せると付上るから、衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯う斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜に出て来た。コリャ大変だと思たが、最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか、これは一ツ下から刎ねて遣りましょうと云う考で、一生懸命、イザと云えば真実に遣る所存で行くと、先方もノソ/\遣って来る。私は実に人を斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ、此方も抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬たからと云て咎められもせぬ、只その場を逃げさえすれば宜しいと覚悟して、段々行くと一歩々々近くなって、到頭すれ違いになった、所が先方の奴も抜かん、此方は勿論抜かん、所で擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位足が早かったか覚えはない、五、六間先へ行て振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先ずホッと呼吸をついて安心して可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑しい芝居はない。初めから此方は斬る気はない、唯逃げては不味い、屹と殺られると思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心怖わ/\表面颯々と出て来て、丁度抜きさえすれば切先の届く位すれ/\になった処で、身を飜して逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方も怖かったが、彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互に話したら面白い事でしょう。
-
福翁自伝・王政維新・教員金の多少を争う右の通り三田の新塾は万事都合能く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之を教師に分配して、如何やら斯うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請の時などには毎度此方から金を出して遣る。教師達もその通りで、外に出れば随分給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是れも私金を出すと同じ事である。凡そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目を申せば、月末などに金を分配するとき、動もすれば教師の間に議論が起るその議論は即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳けはない、君の方が少ないと云うと、「イヤ爾うでない、僕は是れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云てるから、私は側から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜い加減にして分けて仕舞え、争う程の事でもないと毎度笑て居ました。この通りで慶應義塾の成立は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又大学部の為めにも募り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る