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福翁自伝 / 王政維新・義塾三田に移る

慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。

新字:慶応義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福沢が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福沢に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を翻訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの翻訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福沢に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。

書き下し

慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。

現代語訳

慶應義塾が芝の新銭座を去って、三田の今の場所に移ったのは明治四年で、これも塾の一大改革ですから、一通り語りましょう。その前年の五月、私がひどい熱病にかかり、病後で神経が過敏になったせいか、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じられます。また事実、湿地でもあるので、どこかに引っ越したいと思い、飯倉のほうにちょうどよい売り家を探し出して、おおよそ相談を決めようとしたとき、塾の人が申すには、福沢が塾を捨てて他に移るなら、塾も一緒に移ろうという説が起こりました。その時は東京中に大名屋敷がいくらでもあるので、塾の人は毎日のように方々の空き屋敷を探して回り、あそこでもない、ここでもないと勝手次第に良さそうな地所を見立て、いよいよ芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望もよく、塾に適していると衆論一決はしましたが、こちらの説が決まっただけで、その屋敷は他人のものですから、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福沢に貸し渡すという趣向にしなければなりません。それには政府の筋に内談して、できるように整えなければならないというので、時の東京府知事に頼み込むのはもちろん、私が普段から知っていた佐野常民その他の人にも事の次第を語って助力を求め、塾の先輩生が掛かりになって運動するうちに、ある日、私は岩倉公の家に参り、初めての訪問ながらお目にかかりたいと申し込んで公に面会し、いろいろ塾の事情を話して、つまり島原藩の屋敷を拝借したいということを内願して、これも快く引き受けてくれました。 どこもここもきわめて都合のよい折から、幸いにも東京府から私に頼むことができたというのは、当時の東京の取り締まりに、邏卒とか何とかいう名をつけて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡回しているその様子の殺風景とも何とも、まるで戦地のように見える。政府もこれをよくないことと思い、西洋風にポリスの仕組みに改革しようと気がついたが、さてそのポリスとは全体どんなものか、概略でもよいから取り調べてくれないか、と役人が私のところに来て懇ろに内談するその様子は、この取り調べさえできれば何か礼をするというように見えるので、こちらは得たりと、お易い御用でございます、早速取り調べて差し上げましょうが、私のほうからもお願いの筋があります、かねて長官へ内々にお話したこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借したい、これだけは厚くお含みおき願いたい、というのは、巡査法の取り調べと屋敷地の拝借とを交換しようというような塩梅に持ちかけたので、役人も否と言わず黙って承知して帰りました。 それから私はいろいろな原書を集めて警察法に関する部分を翻訳し、綴り合わせて一冊に書き、急いで清書して差し出したところ、東京府ではこの翻訳を種に、なお市中の実際を斟酌してさまざまに工夫し、断然あの兵士の巡回を廃して、改めて巡邏というものを組織し、後にこれを巡査と改名して、東京市中に平和で穏当な取り締まり法ができました。そこで東京府も私に対して、おのずから義理ができたようなわけで、屋敷地の一件もすらすらと運び、島原の屋敷を上地させて福沢に拝借と公然と命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合で、いわゆる大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよいよ塾を移したのが明治四年の春でした。

解説

慶應義塾が三田に移る経緯は、土地探しだけでなく、交渉の巧みさも語っています。福沢は東京府の頼みに応じて西洋の警察制度を調べ、翻訳して提出し、それと引き換えに島原藩の中屋敷を借り受ける内諾を得ました。この翻訳が、兵士の巡回に代わる巡査制度の下敷きになったという点は、福沢自身が述べているところです。相手が困っていることを自分の得意で助け、その流れで自分の願いも叶える。交渉を一方的な要求にせず、互いの利益で結ぶ形が見えます。

この章句が説くこと

三田移転島原藩巡査制度警察法翻訳交渉明治四年

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