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福翁自伝 / 王政維新・敬礼を止める(1)

引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、

新字:引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶応義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、

書き下し

引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、

現代語訳

引っ越してみれば、まことに広々とした屋敷で申し分ありません。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、なお足りないところは方々の屋敷の古長屋を安く買い取って寄宿舎をつくるなどして、にわかに大きな学塾になると同時に、入学生の数も次第に多くなり、この移転の一挙で慶應義塾の面目を新たにしました。ついでに一つ奇談を語りましょう。新銭座の塾から三田に引っ越して、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大なことも新旧比べものになりません。新しい塾の教場、つまり御殿の廊下などは九尺幅もあります。私は毎日塾中を見回り、日曜はとくに掃除の日と決めて、書生部屋の隅まで一々調べ、大小便所の中まで、私が自分で戸を開けて細かく見るようにしていましたから、一日に何度廊下を通り、何人の書生に会うか分かりません。ところが、その行き会うたびに、新入生などは勝手が分からず、私の顔を見ると丁寧にお辞儀をします。向こうから丁寧にされれば、こちらもそれに応じてお辞儀をしなければならず、忙しい中にうるさくて我慢できません。それから先輩の教師たちに尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはしないか。双方の手間の無駄だが」と言うと、誰も同じで、塾が広くなって家の中のお辞儀には閉口していると言うので、「よし来た、俺が広告を掲示してやる」と言って、

解説

三田に移って塾が大きくなると、廊下ですれ違うたびのお辞儀が、福沢にも教師にも負担になりました。これを手間の無駄だと見て、掲示で解決しようとする場面の導入です。福沢は毎日、便所の中まで自分の目で確かめるほど現場を見回っていました。現場に立つから、小さな無駄に気づける。大きな改革の前に、日々の細かな不便を、現場で拾う姿勢が語られています。会議室で出る課題より、廊下で気づく課題のほうが生々しいことがあります。

この章句が説くこと

三田移転お辞儀現場見回り日曜掃除手間の無駄広告掲示

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