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福翁自伝 / 暗殺の心配・疑心暗鬼互に走る(2)

「コリャ困た、今から引返すと却て引身になって追駈けられて後から遣られる、寧そ大胆に此方から進むに若かず、進むからには臆病な風を見せると付上るから、衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯う斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜に出て来た。コリャ大変だと思たが、最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか、これは一ツ下から刎ねて遣りましょうと云う考で、一生懸命、イザと云えば真実に遣る所存で行くと、先方もノソ/\遣って来る。私は実に人を斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ、此方も抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬たからと云て咎められもせぬ、只その場を逃げさえすれば宜しいと覚悟して、段々行くと一歩々々近くなって、到頭すれ違いになった、所が先方の奴も抜かん、此方は勿論抜かん、所で擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位足が早かったか覚えはない、五、六間先へ行て振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先ずホッと呼吸をついて安心して可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑しい芝居はない。初めから此方は斬る気はない、唯逃げては不味い、屹と殺られると思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心怖わ/\表面颯々と出て来て、丁度抜きさえすれば切先の届く位すれ/\になった処で、身を飜して逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方も怖かったが、彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互に話したら面白い事でしょう。

新字:「コリャ困た、今から引返すと却て引身になって追駈けられて後から遣られる、寧そ大胆に此方から進むに若かず、進むからには臆病な風を見せると付上るから、衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯う斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜に出て来た。コリャ大変だと思たが、最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか、これは一ツ下から刎ねて遣りましょうと云う考で、一生懸命、イザと云えば真実に遣る所存で行くと、先方もノソ/\遣って来る。私は実に人を斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ、此方も抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬たからと云て咎められもせぬ、只その場を逃げさえすれば宜しいと覚悟して、段々行くと一歩々々近くなって、到頭すれ違いになった、所が先方の奴も抜かん、此方は勿論抜かん、所で擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位足が早かったか覚えはない、五、六間先へ行て振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先ずホッと呼吸をついて安心して可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑しい芝居はない。初めから此方は斬る気はない、唯逃げては不味い、屹と殺られると思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心怖わ/\表面颯々と出て来て、丁度抜きさえすれば切先の届く位すれ/\になった処で、身を翻して逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方も怖かったが、彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互に話したら面白い事でしょう。

書き下し

「コリャ困た、今から引返すと却て引身になって追駈けられて後から遣られる、寧そ大胆に此方から進むに若かず、進むからには臆病な風を見せると付上るから、衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯う斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜に出て来た。コリャ大変だと思たが、最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか、これは一ツ下から刎ねて遣りましょうと云う考で、一生懸命、イザと云えば真実に遣る所存で行くと、先方もノソ/\遣って来る。私は実に人を斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ、此方も抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬たからと云て咎められもせぬ、只その場を逃げさえすれば宜しいと覚悟して、段々行くと一歩々々近くなって、到頭すれ違いになった、所が先方の奴も抜かん、此方は勿論抜かん、所で擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位足が早かったか覚えはない、五、六間先へ行て振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先ずホッと呼吸をついて安心して可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑しい芝居はない。初めから此方は斬る気はない、唯逃げては不味い、屹と殺られると思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心怖わ/\表面颯々と出て来て、丁度抜きさえすれば切先の届く位すれ/\になった処で、身を飜して逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方も怖かったが、彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互に話したら面白い事でしょう。

現代語訳

「これは困った。今から引き返すと、かえって引け腰になって追いかけられ、後ろからやられる。いっそ大胆にこちらから進むに越したことはない。進む以上は、臆病な風を見せるとつけあがるから、ぶつかるようにやろう」と決心して、今まで私は往来の左の方を通っていたのを、こう斜めに道の真ん中へ出ていくと、向こうの奴も斜めに出てきました。これは大変だと思いましたが、もう一寸も後に引けません。いよいよとなれば、かねて少し居合の心得もあるので、どうしてやろうか、これは一つ、下から跳ねてやろうという考えで、一生懸命、いざと言えば本当にやるつもりで行くと、先方ものそのそとやって来ます。私は実に人を斬ることが大嫌いで、見るのも嫌いですが、逃げれば斬られる、仕方がありません。いよいよ先方が抜きかかれば、背に腹は代えられない、こちらも抜いて先を取らねばなりません。その頃は裁判もなければ警察もなく、人を斬ったからといって咎められもしない。ただその場を逃げさえすればよいと覚悟して、だんだん行くと、一歩一歩近くなって、とうとうすれ違いになりました。ところが先方の奴も抜かず、こちらはもちろん抜かない。そうしてすれ違ったのをきっかけに、私はどんどん逃げました。どのくらい足が速かったか覚えはありません。五、六間先へ行って振り返ってみると、その男もどんどん逃げていきます。どうとも言いようがなく、実に怖かったのですが、双方逃げた後で、ほっと息をついて安心して、おかしかったです。双方とも臆病者と臆病者の出会いで、こしらえた芝居のようで、先方の奴の心中も推察できます。こんなおかしい芝居はありません。 初めからこちらは斬る気はなく、ただ逃げてはまずい、きっとやられると思ったから進んだところ、先方もなかなか心得ていて、内心はびくびくしながら、表面はさっそうと出てきて、ちょうど抜きさえすれば切っ先の届くくらいのすれすれになったところで、身をひるがえして逃げ出したのは、まことにえらい。こんなところで殺されるのは本当の犬死にだから、こちらも怖かったが、あちらもさぞ怖かったろうと思います。今その人はどこにいるやら、三十何年前の若い男だから、まだ生きておられる年ですが、生きているなら会ってみたい。その時の怖さ加減を互いに話したら面白いことでしょう。

解説

夜道で大男とすれ違う話は、双方が逃げて終わる、笑い話になります。福沢は、引き返せば追われ、進めば相手も同じ怖さを抱えていた、と後から思いやります。相手も同じ怖がりだったと推察できる想像力が、この文章の味わいです。もう一つ、臆病な風を見せるとつけあがるから大胆に進む、という判断も見逃せません。対立の場面で、相手もまた恐れているかもしれない、と想像してみること。それが緊張を和らげ、無用な衝突を避ける知恵になります。

この章句が説くこと

夜道すれ違い臆病者同士居合犬死想像力

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