福翁自伝 / 雑記・剣を棄てゝ剣を揮う
私が芝の源助町で人を斬ろうと決心した、居合も少し心得て居るなんて云えば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、爾うではないどころか、日本武士の大小を丸で罷めて仕舞いたいとは私の宿願でした。源助町のときには成程双刀を挟して、刀は金剛兵衛盛高、脇差は備前祐定、先ず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな売て仕舞て、短かい脇差のような物を刀にして御印に挟して居たが、是れに就ても話がある。或日、本郷に居る親友高畑五郎を訪問していろ/\話をして居る中に、不図気が付て見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本飾てあるから、私が高畑に向て、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術が盛になって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからと云て負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私は之を打消し、「ソレは詰らない、君は之を以て威すつもりだろうが、長い刀を家に置て今の浪人者を威そうと云ても、威嚇の道具になりはしない。詰らぬ話だ、止しなさい。僕は家にある刀剣はみんな売て仕舞て、今挟して居るこの大小二本きりしかない。然かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀を鞘に蔵めてお飾に挟して居るのだ。ソレに君がこんな大造な長い刀を弄くると云うのは、君に不似合だ、止すが宜い、御願だから止して呉れ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに極て居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、迚もこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものを飾て置くと云う馬鹿者があるか。僕は一切刀を罷めて居るが、憚りながら抜くことは知て居るぞ、抜て見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭に下りて、兼て少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見給え、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は疾くに刀を売て仕舞たのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。是れは独り吾々洋学者ばかりでない、日本国中の刀を皆なうっちゃって仕舞うと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは颯々と片付けて仕舞うが宜しい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りに挟さなければならんと云うなら、小刀でも何でも宜しいと云て、大きに論じた事がある。
書き下し
私が芝の源助町で人を斬ろうと決心した、居合も少し心得て居るなんて云えば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、爾うではないどころか、日本武士の大小を丸で罷めて仕舞いたいとは私の宿願でした。源助町のときには成程双刀を挟して、刀は金剛兵衛盛高、脇差は備前祐定、先ず相応に切れそうな物であったが、その後、間もなく盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな売て仕舞て、短かい脇差のような物を刀にして御印に挟して居たが、是れに就ても話がある。或日、本郷に居る親友高畑五郎を訪問していろ/\話をして居る中に、不図気が付て見ると恐ろしい長い刀が床の間に一本飾てあるから、私が高畑に向て、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の云うに、近来世の中に剣術が盛になって刀剣が行われる、ナニ洋学者だからと云て負けることはない、僕も一本求めたのだとリキンで居るから、私は之を打消し、「ソレは詰らない、君は之を以て威すつもりだろうが、長い刀を家に置て今の浪人者を威そうと云ても、威嚇の道具になりはしない。詰らぬ話だ、止しなさい。僕は家にある刀剣はみんな売て仕舞て、今挟して居るこの大小二本きりしかない。然かもその大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀を鞘に蔵めてお飾に挟して居るのだ。ソレに君がこんな大造な長い刀を弄くると云うのは、君に不似合だ、止すが宜い、御願だから止して呉れ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに極て居る、それとも抜くことが出来るか。「ソレは抜くことは出来ない、迚もこんな長い物を。「ソリャ見たことか、抜けもせぬものを飾て置くと云う馬鹿者があるか。僕は一切刀を罷めて居るが、憚りながら抜くことは知て居るぞ、抜て見せようと云て、四尺ばかりもある重い刀を取て庭に下りて、兼て少し覚え居る居合の術で二、三本抜て見せて、「サア見給え、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は疾くに刀を売て仕舞たのに、抜けない者が飾て置くとは間違いではないか。是れは独り吾々洋学者ばかりでない、日本国中の刀を皆なうっちゃって仕舞うと云うことにしなければならぬ、だからこんなものは颯々と片付けて仕舞うが宜しい。君も今から廃刀と決心して、いよ/\飾りに挟さなければならんと云うなら、小刀でも何でも宜しいと云て、大きに論じた事がある。
現代語訳
私が芝の源助町で人を斬ろうと決心した、居合も少し心得ている、などと言うと、いかにも武人めいて刀剣を大切にしているように見えますが、実は全く反対で、日本の武士の大小の刀をすっかりやめてしまいたいというのが私の宿願でした。源助町のころは、なるほど二本差しで、刀は金剛兵衛盛高、脇差は備前祐定と、まず相応に切れそうな物でしたが、その後まもなく盛高も祐定も、家にある刀剣類はみな売ってしまい、短い脇差のような物を刀にして腰に差していました。これについても話があります。 ある日、本郷にいる親友の高畑五郎を訪ねて、いろいろ話しているうちに、ふと見ると恐ろしく長い刀が床の間に一本飾ってあります。私が高畑に、あれは居合刀のようだが何にするのかと問うと、主人が言うには、近ごろ世の中で剣術が盛んになって刀剣がもてはやされている、洋学者だからといって負けることはない、僕も一本求めたのだと、力んでいます。私はこれを打ち消して言いました。「それはつまらない。君はこれで脅すつもりだろうが、長い刀を家に置いて今の浪人者を脅そうといっても、脅しの道具にはならない。つまらぬ話だ、やめなさい。僕は家にある刀剣はみな売ってしまって、今差しているこの大小二本きりしかない。しかも大のほうは長い脇差を刀にしたもので、小のほうは鰹節削りの小刀を鞘に納めて飾りに差しているのだ。それなのに君がこんな大層な長い刀をいじるのは、君に似合わない。やめるがいい、お願いだからやめてくれ。論より証拠、君にはこの刀は抜けないに決まっている。それとも抜けるか。」「それは抜けない、とてもこんな長い物は。」「それ見たことか、抜けもしないものを飾っておく馬鹿者があるか。僕は一切刀をやめているが、恐れながら抜くことは知っているぞ、抜いて見せよう。」と言って、四尺ほどもある重い刀を取って庭に下り、かねて少し覚えた居合の術で二、三本抜いて見せました。「さあ見たまえ、この通りだ。どうだ、君には抜けまい。抜ける者はとうに刀を売ってしまったのに、抜けない者が飾っておくとは間違いではないか。これは我々洋学者だけでなく、日本国中の刀をみな捨ててしまうことにしなければならない。だからこんなものはさっさと片付けてしまうのがいい。君も今から廃刀と決心して、どうしても飾りに差さなければならないと言うなら、小刀でも何でもいい。」と、大いに論じたことがありました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・攘夷論・刀剣を売払うソコで私は只独りの身を慎むと同時に、是れはドウしたって刀は要らない、馬鹿々々しい、刀は売て仕舞えと決断して、私の処にはそんなに大小などは大層もありはしないが、ソレでも五本や十本はあったと思う、神明前の田中重兵衛と云う刀屋を呼で、悉く売払て仕舞た。けれどもその時分はマダ双刀を挟さなければならぬ時であるから、私の父の挟して居た小刀、即ちを着るとき挟す脇差の鞘を少し長くして刀に仕立て、夫れから神明前の金物屋で小刀を買て短刀作りに拵えて、唯印し丈けの脇差に挟すことにして、アトは残らず売払て、その代金は何でも二度に六、七十両請取たことは今でも覚えて居る。即ち家に伝わる長い脇差の刀に化けたのが一本、小刀で拵えた短い脇差が一本、それ切で外には何もない。そうして小さくなって居るばかり。私は少年の時から大阪の緒方の塾に居るときも、戯に居合を抜て、随分好きであったけれども、世の中に武芸の話が流行すると同時に、居合刀はすっかり奥に仕舞い込んで、刀なんぞは生れてから挟すばかりで抜たこともなければ抜く法も知らぬと云うような風をして、唯用心に用心して夜分は決して外に出ず、凡そ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間と云うものは、夜分外出したことはない。その間の仕事は何だと云うと、唯著書飜訳にのみ屈託して歳月を送て居ました。
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福翁自伝・雑記・扇子から懐剣が出る是れも大抵同時代と思う。幕府の飜訳局に雇れて其処に出て居た時、或人が私に話すに、「近来なか/\面白い扇子が流行る。鉄扇と云うものは昔から行われて居たが、今はソレが大に進歩して、唯の扇子と見せて置て、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る、なか/\面白い事を発明したと噂して居る。ソコで私が大にまぜかえして遣た。「扇子の中から懐剣の出るのが何が賞めた話だ。それよりも懐剣として置て、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ、倒まにしろ、爾うしたら賞めて遣る、そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか、面白くもないと云て、打毀した事を覚えて居ます。 幕府が倒れると私はスグ帰農して、夫れ切り双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。所がこの廃刀と云う事は中々容易な事でない。実を申せば持兇器を罷めるのだから、世間の人は悦びそうなものだが、決して爾うでない。私が始めて腰の物なしで汐留の奥平屋敷に行た所が、同藩士は大に驚き、丸腰で御屋敷に出入するとは殿様に不敬ではないかなどゝ議論する者もありました。又或るとき塾の小幡仁三郎と誰か二、三人で散歩中、その廃刀を何処かの壮士に見咎められて怖い思いをした事もある、けれども私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に頓着せず、「文明開国の世の中に難有そうに兇器を腰にして居る奴は馬鹿だ、その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀は之を名けて馬鹿メートルと云うが好かろうなどゝ放言して居れば、塾中にも自から同志がある。
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福翁自伝・暗殺の心配・疑心暗鬼互に走る(2)「コリャ困た、今から引返すと却て引身になって追駈けられて後から遣られる、寧そ大胆に此方から進むに若かず、進むからには臆病な風を見せると付上るから、衝当るように遣ろうと決心して、今まで私は往来の左の方を通て居たのを、斯う斜に道の真中へ出掛けると、彼方の奴も斜に出て来た。コリャ大変だと思たが、最う寸歩も後に引かれぬ。いよ/\となれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか、これは一ツ下から刎ねて遣りましょうと云う考で、一生懸命、イザと云えば真実に遣る所存で行くと、先方もノソ/\遣って来る。私は実に人を斬と云うことは大嫌い、見るのも嫌いだ、けれども逃げれば斬られる、仕方がない、愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ、此方も抜て先を取らねばならん、その頃は裁判もなければ警察もない、人を斬たからと云て咎められもせぬ、只その場を逃げさえすれば宜しいと覚悟して、段々行くと一歩々々近くなって、到頭すれ違いになった、所が先方の奴も抜かん、此方は勿論抜かん、所で擦違たから、それを拍子に私はドン/\逃げた。どの位足が早かったか覚えはない、五、六間先へ行て振返て見ると、その男もドン/\逃げて行く。如何も何とも云われぬ、実に怖かったが、双方逃げた跡で、先ずホッと呼吸をついて安心して可笑しかった。双方共に臆病者と臆病者との出逢い、拵えた芝居のようで、先方の奴の心中も推察が出来る。コンな可笑しい芝居はない。初めから此方は斬る気はない、唯逃げては不味い、屹と殺られると思たから進んだ所が、先方も中々心得て居る、内心怖わ/\表面颯々と出て来て、丁度抜きさえすれば切先の届く位すれ/\になった処で、身を飜して逃出したのは誠にエライ。こんな処で殺されるのは真実の犬死だから、此方も怖かったが、彼方もさぞ/\怖かったろうと思う。今その人は何処に居るやら、三十何年前若い男だから、まだ生きて居られる年だが、生きて居るなら逢うて見たい。その時の怖さ加減を互に話したら面白い事でしょう。
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福翁自伝・暗殺の心配・疑心暗鬼互に走る(1)時は違うが維新前、文久三、四年の頃、江戸深川六軒掘に藤沢志摩守と云う旗本がある。是れは時の陸軍の将官を勤め、極の西洋家で、或日その人の家に集会を催し、客は小出播磨守、成島柳北を始め、その外皆むかしの大家と唱うる蘭学医者、私とも合して七、八名でした。その時の一体の事情を申せば、前に申した通り、私は十二、三年間、夜分外出しないと云う時分で、最も自から警めて、内々刀にも心を用い、能く研がせて斬れるようにして居ます。敢て之を頼みにするではなけれども、集会の話が面白く、ツイ/\怖い事を忘れて思わず夜を更かして、十二時にもなった所で、座中みな気が付て、サア帰りが怖い。疵持つ身と云う訳けではないが、いずれも洋学臭い連中だから皆な怖がって、「大分晩うなったが如何だろうと云うと、主人が気を利かして屋根舟を用意し、七、八人の客を乗せて、六軒堀の川岸から市中の川、即ち堀割を通り、行く/\成島は柳橋から上り、それから近いもの/\と段々に上げて、仕舞に戸塚と云う老医と私と二人になり、新橋の川岸に着て、戸塚は麻布に帰り私は新銭座に帰らねばならぬ。新橋から新銭座まで凡そ十丁もある。時刻はハヤ一時過ぎ、然かもその夜は寒い晩で、冬の月が誠に能く照して何となく物凄い。新橋の川岸へ上って大通りを通り、自から新銭座の方へ行くのだから、此方側即ち大通り東側の方を通て四辺を見れば人は唯の一人も居ない。その頃は浪人者が徘徊して、其処にも此処にも毎夜のように辻斬とて容易に人を斬ることがあって、物騒とも何とも云うに云われぬ、夫れから袴の股立を取て進退に都合の好いように趣向して、颯々と歩いて行くと丁度源助町の央あたりと思う、向から一人やって来るその男は大層大きく見えた。実は如何だか知らぬが、大男に見えた。「ソリや来た、どうもこれは逃げた所がおっ付ない。今ならば巡査が居るとか人の家に駈込むとか云うこともあるが、如何して/\騒々しい時だから不意に人の家に入られるものでない、却て戸を閉て仕舞て、出て加勢しようなんと云うものゝないのは分り切てる。
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福翁自伝・品行家風・不風流の由来元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
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福翁自伝・攘夷論・剣術の全盛兎に角に癸亥の前後と云うものは、世の中は唯無闇に武張るばかり。その武張ると云うのも自から由来がある。徳川政府は行政外交の局に当て居るから拠ろなく開港説――開国論を云わなければならぬ、又行わなければならぬ、けれどもその幕臣全体の有様はドウだと云うと、ソリャ鎖国家の巣窟と云ても宜い有様で、四面八方ドッチを見ても洋学者などの頭を擡げる時代でない。当時少しく世間に向くような人間は悉く長大小を横える。夫れから江戸市中の剣術家は幕府に召出されて巾を利かせて、剣術大流行の世の中になると、その風は八方に伝染して坊主までも体度を改めて来た。元来その坊主と云うものは城内に出仕して大名旗本の給仕役を勤める所謂茶道坊主であるから、平生は短い脇差を挟して大名に貰た縮緬の羽織を着てチョコ/\歩くと云うのが是れが坊主の本分であるのに、世間が武張るとこの茶道坊主までが妙な風になって、長い脇差を挟して坊主頭を振り立てゝ居る奴がある。又当時流行の羽織はどうだと云うと、御家人旗本の間には黄平の羽織に漆紋、それは昔し/\家康公が関ヶ原合戦の時に着て夫れから水戸の老公が始終ソレを召して居たとかと云うような云伝えで、ソレが武家社会一面の大流行。ソレカラ江戸市中七夕の飾りには、笹に短冊を付けて西瓜の切とか瓜の張子とか団扇とか云うものを吊すのが江戸の風である。所が武道一偏、攘夷の世の中であるから、張子の太刀とか兜とか云うようなものを吊すようになって、全体の人気がすっかり昔の武士風になって仕舞た。迚も是れでは寄付きようがない。
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