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福翁自伝 / 緒方の塾風・チボと呼ばれる

私が一度大に恐れたことは、是れも御霊の近処で上方に行われる砂持と云う祭礼のような事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人して之を見物して居る中に、私が如何いう気であったか、何れ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯籠を打落して遣た。スルトその連中の奴と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と云えば、理非を分たず打殺して川に投り込む習わしだから、私は本当に怖かった。何でも逃げるに若かずと覚悟をして、跣になって堂島の方に逃げた。その時私は脇差を一本挟して居たから、若し追付かるようになれば後向て進で斬るより外仕方がない。斬ては誠に不味い。仮初にも人に疵を付ける了簡はないから、唯一生懸命に駈けて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷に飛込でホット呼吸をした事がある。

書き下し

私が一度大に恐れたことは、是れも御霊の近処で上方に行われる砂持と云う祭礼のような事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人して之を見物して居る中に、私が如何いう気であったか、何れ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯籠を打落して遣た。スルトその連中の奴と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と云えば、理非を分たず打殺して川に投り込む習わしだから、私は本当に怖かった。何でも逃げるに若かずと覚悟をして、跣になって堂島の方に逃げた。その時私は脇差を一本挟して居たから、若し追付かるようになれば後向て進で斬るより外仕方がない。斬ては誠に不味い。仮初にも人に疵を付ける了簡はないから、唯一生懸命に駈けて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷に飛込でホット呼吸をした事がある。

現代語訳

私が一度、大いに恐ろしい思いをしたことがあります。御霊神社の近所で上方に行われる砂持という祭りのような行事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠を頭に掛け、ヤイヤイ言いながら行列をして町を通ります。書生が三、四人でこれを見物していたところ、私がどういう気になったのか、おおかた酒の勢いでしょう、杖か何かでその頭の灯籠を打ち落としてやりました。すると連中の仲間が、チボじゃ、チボじゃと怒鳴り出したのです。大阪でチボ(スリ)と言えば、理非を問わず打ち殺して川に投げ込む習わしですから、私は本当に怖かった。何でも逃げるに限ると覚悟を決め、はだしになって堂島の方へ逃げました。そのとき私は脇差を一本差していたので、もし追いつかれたら振り向いて斬るよりほかにありません。しかし斬ってはまずい。かりそめにも人に傷をつける気はありませんから、ただ一生懸命に駆けて、堂島五丁目にある奥平家の蔵屋敷に飛び込み、ほっと息をついたことがあります。

解説

酒の勢いで祭りの灯籠を叩き落とし、スリ呼ばわりされて逃げ出すという、福沢の若気の至りの告白です。大阪では盗人を見つけると私刑にするような荒い気風があり、命がけで蔵屋敷に駆け込んだ様子が語られます。腰の脇差を使いたくないという一点に、乱暴者の自分にも守っていた線があったことが見えます。酔った勢いの軽率な行動が取り返しのつかない結果になりかねないのは、今の職場でも同じです。後悔の記憶を笑い話として残せる率直さが、この自伝の魅力でもあります。

この章句が説くこと

緒方塾酒失敗恐怖大阪脇差

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