福翁自伝 / 王政維新・敬礼を止める(2)
塾中の生徒は長者に対するのみならず相互の間にも粗暴無礼は固より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては、仮令い教師先進者に行逢うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰なり、互に相見て互に目礼を以て足るべし。益もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非ず。この段心得の為めに掲示す。 と張紙して、生徒のお辞儀を止めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して爾うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌に導かんとするには、お辞儀の廃止も自から一時の方便で、その功能は慥に見えました。今でも塾にはコンな風が遺て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付けて寸毫も仮さず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方は何ともないと、チャンと説を極めて思う様に制御して居れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に於て許さない。左ればとて本塾の生徒に限て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳であろうと思われる。
書き下し
塾中の生徒は長者に対するのみならず相互の間にも粗暴無礼は固より禁ずる所なれども、講堂の廊下その他塾舎の内外往来頻繁の場所にては、仮令い教師先進者に行逢うとも丁寧に辞儀するは無用の沙汰なり、互に相見て互に目礼を以て足るべし。益もなき虚飾に時を費すは学生の本色に非ず。この段心得の為めに掲示す。 と張紙して、生徒のお辞儀を止めた事がある。長者に対して辞儀をするなと云えば、横風になれ、礼儀を忘れよと云うように聞えて、奇なように思われるが、その時の事情は決して爾うでない。百千年来圧制の下に養われて官民共に一般の習慣を成したるこの国民の気風を活溌に導かんとするには、お辞儀の廃止も自から一時の方便で、その功能は慥に見えました。今でも塾にはコンな風が遺て、生徒取扱いの法は塾の規則に従い、不法の者があれば会釈なくミシ/\遣付けて寸毫も仮さず、生徒に不平があれば皆出て行け、此方は何ともないと、チャンと説を極めて思う様に制御して居れども、教師その他に対して入らざる事に敬礼なんかんと云うような田舎らしい事は塾の習慣に於て許さない。左ればとて本塾の生徒に限て粗暴な者が多いでもなし、一方から見て幾分かその気品の高尚にして男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳であろうと思われる。
現代語訳
掲示の文面は次の通りです。塾中の生徒は、年長者に対してだけでなく、お互いの間でも粗暴無礼はもとより禁ずるところだが、講堂の廊下その他、塾舎の内外で往来が頻繁な場所では、たとえ教師や先輩に行き会っても、丁寧にお辞儀をするのは不要である。互いに見て、互いに目礼で足りる。益のない虚飾に時間を費やすのは、学生の本分ではない。この点、心得のために掲示する。 と張り紙をして、生徒のお辞儀をやめさせたことがあります。年長者に対してお辞儀をするなと言えば、横柄になれ、礼儀を忘れよと聞こえて、奇妙に思われるでしょうが、その時の事情は決してそうではありません。百年、千年来、圧制の下に養われて官民ともに一般の習慣となったこの国民の気風を活発に導こうとするには、お辞儀の廃止もおのずから一時の方便で、その効果は確かに見えました。今でも塾にはこういう風が残っていて、生徒の取り扱い方は塾の規則に従い、不法の者があれば遠慮なくミシミシやっつけて少しも貸さず、生徒に不平があればみな出て行け、こちらは何ともない、と、ちゃんと方針を決めて思う通りに制御していますが、教師その他に対して要らぬ敬礼などというような田舎らしいことは、塾の習慣として許しません。そうかといって、本塾の生徒に限って粗暴な者が多いわけでもなく、一方から見て、いくぶんその気品が高尚で男らしいのは、虚礼虚飾を脱したその功徳だろうと思われます。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・敬礼を止める(1)引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、
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福翁自伝・大阪修業・塾長になるその後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。扨塾長になったからと云て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯塾中一番六かしい原書を会読するときその会頭を勤める位のことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではないどうかと云えば先ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以て人を感化するなど云う鹿爪らしい事を考える訳けもない。又塾風を善くすれば先生に対しての御奉公、御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、唯私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪らず、人の金を借用せず、唯の百文も借りたることはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧ずと云う、自から外の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣ろうと云うような血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更らに覚えはなかったのです。併し何でも爾う威張り廻って暴れたのが、塾の為めに悪い事もあろう、又自から役に立たこともあるだろうと思う。若し役に立て居れば夫れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
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福翁自伝・王政維新・塾の始末に困る、楽書無用夫れはそれとして又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦て漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘塾に来たと云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘の大小を挟して、鉄砲こそ持たないが今にも斬て掛ろうと云うような恐ろしい顔色をして居る。爾うかと思うとその若武者が紅い女の着物を着て居る。是れはドウしたのかと云うと、会津で分捕りした着物だと云て威張て居る。実に血腥い怖い人物で、一見先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極めて簡単な塾則を拵えて、塾中金の貸借は一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰うときには定めの時間に食堂に出る、夫れから楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論、自分所有の行灯にも机にも一切の品物に楽書は相成らぬと云うくらいの箇条で、既に規則を極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以て其処だけ切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付ける。夫れから行灯に書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎めると、時としてはその者が、「是れは自分でない、人の書たのですと云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張て置きなさいと云うようにして、寸毫も仮さない。如何に血腥い若武者が何と云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付けて遣る。名は忘れたが、不図見た所が桐の枕に如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀わすから代りを取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰して、サアどうでもしろ、攫み掛て来るなら相手になろうと云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫み掛りそうな気色で、口の法螺でなくして身体の法螺で吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥い奴も自から静になって塾の治まりが付き、その中には真成な大人しい学者風の少年も多く、至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座に居ました。
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『論語と算盤』教育と情誼・其罪果して孰れに在りやしかし弟子の心得方も甚だ悪いと思う。一般の風習が、その師に対して敬うという念が少ない。他の国々の有様はよく分かりませぬが、かのイギリスなどはどうも私は子弟の間の関係が、日本の今日のようではないと思う。ただし日本でも優れた教育に従事した人が、なお今私が述べた有様とは言わぬ。ある方面には中江藤樹も、木下順庵もあろうけれども、甚だ少ない。過渡時代のため、不幸にしてにわか出来の先生がたくさんあるから、おのずからかかる弊害を惹起したのだと弁解すれば、弁疏の言葉があるけれども、いやしくも人に教授する以上は、その人自身が自ら省みてよほど注意してもらいたいものであると同時に、また一方よりこれを十分敬うという心をもって、師弟の間に情愛をもってしたいと思う。もし諸君の従事なさる学校の教員諸氏にも、生徒をして常にこれに接触せしむるに、かく心掛けられたら、その風儀を良くするということが、ことごとくは届かないまでも、悪いのを防ぐというだけくらいのことは、必ず為し得られるものであろうと、こう思うのである。
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福翁自伝・王政維新・授業料の濫觴扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
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