福翁自伝 / 王政維新・授業料の濫觴
扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
新字:扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶応義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶応義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
書き下し
扨鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年即ち慶応四年、明治改元の前でありしゆえ、塾の名を時の年号に取て慶應義塾と名づけ、一時散じた生徒も次第に帰来して塾は次第に盛になる。塾が盛になって生徒が多くなれば塾舎の取締も必要になるからして、塾則のようなものを書て、是れも写本は手間が取れると云うので版本にして、一冊ずつ生徒に渡し、ソレには色々箇条のある中に、生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾が創めた新案である。従前、日本の私塾では支那風を真似たのか、生徒入学の時には束脩を納めて、教授する人を先生と仰ぎ奉り、入学の後も盆暮両度ぐらいに生徒銘々の分に応じて金子なり品物なり熨斗を附けて先生家に進上する習わしでありしが、私共の考えに、迚もこんな事では活溌に働く者はない、教授も矢張り人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある、構うことはないから公然価を極めて取るが宜いと云うので、授業料と云う名を作て、生徒一人から毎月金二分ずつ取立て、その生徒には塾中の先進生が教えることにしました。その時塾に眠食する先進長者は、月に金四両あれば喰うことが出来たので、ソコで毎月生徒の持て来た授業料を掻き集めて、教師の頭に四両ずつ行渡れば死はせぬと大本を定めて、その上に尚お余りがあれば塾舎の入用にすることにして居ました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを始めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。生徒に向て金二分持て来い、水引も要らなければ熨斗も要らない、一両持て来れば釣を遣るぞと云うように触込んでも、ソレでもちゃんと水引を掛けて持て来るものもある。スルとこんな物があると札を検める邪魔になると云て、態と上包を還して遣るなどは随分殺風景なことで、世間の人の驚いたのも無理はないが、今日それが日本国中の風俗習慣になって、何ともなくなったのは面白い。何事に由らず新工風を運らして之を実地に行うと云うのは、その事の大小を問わず余程の無鉄砲でなければ出来たことではない。左る代りに夫れが首尾能く参て、何時の間にか世間一般の風になれば、私の為めには恰も心願成就で、こんな愉快なことはありません。
現代語訳
さて、鉄砲洲の塾を芝の新銭座に移したのは明治元年、つまり慶応四年のことで、明治改元の前でしたので、塾の名をその時の年号から取って慶應義塾と名づけました。一時散じた生徒も次第に帰ってきて、塾はだんだん盛んになります。塾が盛んになって生徒が多くなれば、塾舎の取り締まりも必要になるので、塾則のようなものを書き、これも写本は手間がかかるというので版本にして、一冊ずつ生徒に渡しました。それにはいろいろ箇条がありましたが、その中に、生徒から毎月お金を取るということも、慶應義塾が始めた新案です。 これまで日本の私塾では、中国風をまねたのか、生徒が入学するときに束脩を納め、教える人を先生と仰ぎ、入学後も盆と暮れの二度ほど、生徒それぞれの分に応じて、金子や品物に熨斗をつけて先生の家に進上する習わしでした。しかし私たちの考えでは、とてもこんなことでは活発に働く者はいない、教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るのに何の不都合があるか、かまうことはないから、公然と値段を決めて取るのがよい、ということで、授業料という名をつくり、生徒一人から毎月金二分ずつ取り立て、その生徒には塾中の先輩が教えることにしました。 その時、塾に寝泊まりする先輩は、月に金四両あれば食べていけましたので、毎月生徒の持ってきた授業料をかき集めて、教師の頭数に四両ずつ行き渡れば死にはしないと大本を決め、その上になお余りがあれば塾舎の入用にすることにしていました。今では授業料などは普通で当然のようにありますが、それを初めて行ったときは、実に世間を驚かせました。生徒に向かって、金二分持ってこい、水引も要らない、熨斗も要らない、一両持ってくればつりを出すぞ、と触れ込んでも、それでもちゃんと水引をかけて持ってくる者もあります。するとこんな物があると札を調べる邪魔になるといって、わざと上包みを返してやるなどは、ずいぶん殺風景なことで、世間の人が驚いたのも無理はありません。しかし今日、それが日本国中の風俗習慣になって何ともなくなったのは面白いことです。何事によらず新工夫をめぐらして実地に行うというのは、その事の大小を問わず、よほどの無鉄砲でなければできることではありません。そのかわり、それがうまくいって、いつの間にか世間一般の風になれば、私にとってはまさに心願成就で、こんな愉快なことはありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・王政維新・教員金の多少を争う右の通り三田の新塾は万事都合能く行われて、塾の資本金こそ皆無なれ、生徒から毎月の授業料を取集めて之を教師に分配して、如何やら斯うやら立行くその中にも、教師は皆本塾の先進生であるから、この塾に居て余計な金を取ろうと云う考はない。第一私が一銭でも塾の金を取らぬのみか、普請の時などには毎度此方から金を出して遣る。教師達もその通りで、外に出れば随分給料の取れるのを取らずに塾の事を勤めるから、是れも私金を出すと同じ事である。凡そコンナ風で無資金の塾も維持が出来たが、その時の真面目を申せば、月末などに金を分配するとき、動もすれば教師の間に議論が起るその議論は即ち金の多少を争う議論で、僕はコンなに多く取る訳けはない、君の方が少ないと云うと、「イヤ爾うでない、僕は是れで沢山だ、イヤ多い、少ないと、喧嘩のように云てるから、私は側から見て、「ソリゃ又始まった、大概にして置きなさい、ドウせ足りない金だから宜い加減にして分けて仕舞え、争う程の事でもないと毎度笑て居ました。この通りで慶應義塾の成立は、教師の人々がこの塾を自分のものと思うて勉強したからの事です。決して私一人の力に叶う事ではない。人間万事余り世話をせずに放任主義の方が宜いかと思われます。その後時勢も次第に進歩するに従い、塾の維持金を集め、又大学部の為めにも募り、近来は又重ねて募集金を始めましたが、是れも私は余り深く関係せず、一切の事を塾出身の若い人に任せて居ます。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(1)私の考は塾に少年を集めて原書を読ませる計りが目的ではない。如何様にもしてこの鎖国の日本を開て西洋流の文明に導き、富国強兵以て世界中に後れを取らぬようにしたい。左りとて唯これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初めにも言行齟齬しては済まぬ事だと、先ず一身の私を慎しみ、一家の生活法を謀り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、扨一方に世の中を見て文明改進の為めに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着せず思切て試みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を棄てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に説て之を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を破て平易なる通俗文を用うる事なり、凡そ是等は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳したって、私の出版書のように売れよう訳けはない。畢竟私の才力がエライと云うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。兎にも角にも著訳書が私の身を立て家を成す唯一の基本になって、ソレで私塾を開ても、生徒から僅ばかりの授業料を掻集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師等の所得にすることが出来たその上に、折々私の財嚢から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。 所で私の性質は全体放任主義と云おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事に就て朝夕心を用いて一生懸命、些細の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、是非とも慶應義塾を永久に遺して置かなければならぬと云う義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定して居るから、随て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中自から独立の気風を生じて世間の反りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々と言論して、時としてはその言論が政府の癪に障ることもあろう。実を云えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切既往を云わず、唯今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して呉れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野とか忌に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、甚だしきは之を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も穢くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺の風も大に改まりて、余り酷い事はない。何れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。
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福翁自伝・王政維新・敬礼を止める(1)引越して見れば誠に広々とした屋敷で申分なし。御殿を教場にし、長局を書生部屋にして、尚お足らぬ処は諸方諸屋敷の古長屋を安く買取て寄宿舎を作りなどして、俄に大きな学塾に為ると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新にしました。序ながら一奇談を語りましょう。新銭座入塾から三田に引越し、屋敷地の広さは三十倍にもなり、建物の広大な事も新旧較べものにならぬ。新塾の教場即ち御殿の廊下などは九尺巾もある。私は毎日塾中を見廻り、日曜は殊に掃除日と定めて書生部屋の隅まで一々検め、大小便所の内まで私が自分で戸を明けて細に見ると云うようにして居たから、一日に幾度び廊下を通て幾人の書生に逢うか知れない。所がその行逢う毎に、新入生などは勝手を知らずに、私の顔を見ると丁寧に辞儀をする。先方から丁寧に遣れば、此方も之に応じて辞儀をしなければならぬ。忙しい中にウルサクて堪まらぬ。ソレから先進の教師連に尋ねて、「廊下で書生のお辞儀に困りはせぬか、双方の手間潰だがと云うと、何れも同様、塾が広くなって家の内の御辞儀には閉口と云うから、「よし来た、乃公が広告を掲示して遣ると云て、
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福翁自伝・王政維新・義塾三田に移る慶應義塾が芝の新銭座を去て三田の只今の処に移たのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病に罹り、病後神経が過敏になった所為か、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。又事実湿地でもあるから何処かに引移りたいと思い、飯倉の方に相当の売家を捜出して略相談を極めようとするときに、塾の人の申すに、福澤が塾を棄てゝ他に移るなら塾も一緒に移ろうと云う説が起て、その時には東京中に大名屋敷が幾らもあるので、塾の人は毎日のように方々の明屋敷を捜して廻わり、彼処でもない此処でもないと勝手次第に宜さそうな地所を見立てゝ、いよ/\芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望も良し、塾には適当だと衆論一決はしたれども、此方の説が決した計りで、その屋敷は他人の屋敷であるから、之を手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じて、改めて福澤に貸渡すと云う趣向にしなければならぬ。ソレには政府の筋に内談して出来るように拵えねばならぬと云うので、時の東京府知事に頼込むは勿論、私の平生知て居る佐野常民その他の人にも事の次第を語りて助力を求め、塾の先進生※掛りにて運動する中に、或日私は岩倉公の家に参り、初めて推参なれども御目に掛りたいと申込んで公に面会、色々塾の事情を話して、詰り島原藩の屋敷を拝借したいと云う事を内願して、是れも快く引受けて呉れる。何処も此処も至極都合の好い折柄、幸いにも東京府から私に頼む事が出来て来たと云うは、当時東京の取締には邏卒とか何とか云う名を付けて、諸藩の兵士が鉄砲を担いで市中を巡廻して居るその有様の殺風景とも何とも、丸で戦地のように見える。政府も之を宜くないことゝ思い、西洋風にポリスの仕組に改革しようと心付きはしたが、扨そのポリスとは全体ドンなものであるか、概略でも宜しい、取調べて呉れぬかと、役人が私方に来て懇々内談するその様子は、この取調さえ出来れば何か礼をすると云うように見えるから、此方は得たり賢し、お易い御用で御座る、早速取調べて上げましょうが、私の方からも願の筋がある、兼て長官へ内々御話いたしたこともある通り、三田の島原の屋敷地を拝借いたしたい、是れ丈けは厚く御含を願うと云うは、巡査法の取調と屋敷地の拝借と交易にしようと云うような塩梅に持掛けて、役人も否と云わずに黙諾して帰る。ソレから私は色々な原書を集めて警察法に関する部分を飜訳し、綴り合せて一冊に認め早々清書して差出した所が、東京府ではこの飜訳を種にして尚お市中の実際を斟酌し様々に工風して、断然彼の兵士の巡廻を廃し、改めて巡邏と云うものを組織し、後に之を巡査と改名して東京市中に平和穏当の取締法が出来ました。ソコで東京府も私に対して自から義理が出来たような訳けで、屋敷地の一条もスラ/\行われて、島原の屋敷を上地させて福澤に拝借と公然命令書が下り、地所一万何千坪は拝借、建物六百何十坪は一坪一円の割合にて所謂大名の御殿二棟、長屋幾棟の代価六百何十円を納めて、いよ/\塾を移したのが明治四年の春でした。
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福翁自伝・王政維新・義塾次第に繁昌扨四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞て、残た者は僅に十八人、夫れから四月になった所が段々帰て来て、追々塾の姿を成して次第に盛になる。又盛になる訳けもある、と云うのは今度私が亜米利加に行た時には、其以前、亜米利加に行た時よりも多く金を貰いました。所で旅行中の費用は都て官費であるから、政府から請取た金は皆手元に残る故、その金を以て今度こそは有らん限りの原書を買て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その外法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と云う生徒に銘々その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟私が始めて持て帰たのが因縁になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布して広く行われたと云うのも、事の順序はよく分て居ます。
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福翁自伝・王政維新・塾の始末に困る、楽書無用夫れはそれとして又一方から見れば、塾生の始末には誠に骨が折れました。戦争後意外に人の数は増したが、その人はどんな種類の者かと云うに、去年から出陣してさん/″\奥州地方で戦て漸く除隊になって、国には帰らずに鉄砲を棄てゝその儘塾に来たと云うような少年生が中々多い。中にも土佐の若武者などは長い朱鞘の大小を挟して、鉄砲こそ持たないが今にも斬て掛ろうと云うような恐ろしい顔色をして居る。爾うかと思うとその若武者が紅い女の着物を着て居る。是れはドウしたのかと云うと、会津で分捕りした着物だと云て威張て居る。実に血腥い怖い人物で、一見先ず手の着けようがない。ソコデ私は前申す通り新銭座の塾を立てると同時に極めて簡単な塾則を拵えて、塾中金の貸借は一切相成らぬ、寝るときは寝て、起るときは起き、喰うときには定めの時間に食堂に出る、夫れから楽書一切相成らぬ、壁や障子に楽書を禁ずるは勿論、自分所有の行灯にも机にも一切の品物に楽書は相成らぬと云うくらいの箇条で、既に規則を極めた以上はソレを実行しなくてはならぬ。ソコで障子に楽書してあれば私は小刀を以て其処だけ切破て、この部屋に居る者が元の通りに張れと申付ける。夫れから行灯に書てあれば、誰の行灯でも構わぬ、その持主を咎めると、時としてはその者が、「是れは自分でない、人の書たのですと云ても私は許さぬ。人が書たと云うのは云訳けにならぬ、自分の行灯に楽書されてソレを見て居ると云うのは馬鹿だ、馬鹿の罰に早々張替えるが宜しい、楽書した行灯は塾に置かぬ、破るからアトを張て置きなさいと云うようにして、寸毫も仮さない。如何に血腥い若武者が何と云おうとも、そんな事を恐れて居られない。ミシ/\遣付けて遣る。名は忘れたが、不図見た所が桐の枕に如何な楽書がしてある。「コリャ何だ。銘々の私有品でも楽書は一切相成らぬと云たではないか、ドウ云う訳けだ、一句の返答も出来なかろう。この枕は私は削りたいけれども削ることが出来ない、打毀わすから代りを取て来なさいと云て、その枕を取上げて足で踏潰して、サアどうでもしろ、攫み掛て来るなら相手になろうと云わぬばかりの思惑を示した所で、決して掛らぬ。全体私は骨格は少し大きいが、本当は柔術も何も知らない、生れてから人を打たこともない男だけれども、その権幕はドウも撃ちそうな攫み掛りそうな気色で、口の法螺でなくして身体の法螺で吹倒した。所が皆小さくなって言うことを聞くようになって来て、ソレでマア戦争帰りの血腥い奴も自から静になって塾の治まりが付き、その中には真成な大人しい学者風の少年も多く、至極勉強してます/\塾風を高尚にして、明治四年まで新銭座に居ました。
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