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福翁自伝 / 品行家風・家に秘密事なし・礼儀足らざるが如し

又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。 その礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。

新字:又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。 その礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福沢の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。

書き下し

又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。 その礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。

現代語訳

また家の中に秘密事がないというのが私の家の家風で、夫婦親子の間に隠すことはありません。どんなことでも言われないことはない。子供が次第に成長して、これはあの子に話して、この子には内緒、などということは絶えてありません。親が子供の不行き届きを咎めてやれば、子供もまた親の失策を笑うというような次第で、古風な目で見るとちょっと尊卑の礼儀がないように見えるでしょう。 その礼儀のことについて申せば、家の主人が出入りするとき、家内の者が玄関まで送り迎えしてお辞儀をするというようなことがよく世間にありますが、私のところでは絶えてそんなことがありません。私が外出するには玄関からも出れば台所からも出ます。帰るときもそのとおりで、ただ足の向いた方に入ってきます。あるいは車に乗って帰ってきたとき、車夫や別当たちに、玄関のところで「お帰りなさい」などと余計なことを言ってくれるな、というわけですから、いくら玄関で怒鳴っても出てくる人はありません。その点になると、世間の人はともかく、近くは内のお祖母さんが怪しんでいるでしょう。この老人は土岐家の後室で、本年七十七歳、昔は奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福沢の家風を見て、どうも不作法でよくない、かといってこれが悪いという箇条もない、妙なことだと思っているだろうと、私は密かに推察します。

解説

福沢の家には秘密がなく、玄関での送り迎えのような形式的な礼儀もありません。親が子の不行き届きを咎めれば、子も親の失策を笑うという対等さは、古風な目には礼儀を欠いて映るでしょう。最後に、武家の作法で育った義母が、不作法ではあるが悪いとも言えないと戸惑っているだろうと想像する筆致が、愛嬌があります。形式を省いても、風通しのよさと互いの尊重は保てるか、という問いの実験が、この家だったのでしょう。職場のあいさつや報告のルールを考える際にも、形と中身のどちらを守るべきか、考えるきっかけになります。

この章句が説くこと

家風秘密なし礼儀玄関土岐家対等

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