福翁自伝 / 王政維新・著書飜訳一切独立
又維新前後は私が著書飜訳を勉めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言に記してあるから之を略しますが、元来私の著訳は真実私一人の発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況して序文題字など頼んだこともない。是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云う人に序文でも書かせた方が宜かったか知れないが、私は夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何に拘わらず古風な人の気に入る筈はない。ソレでもその書が殊更らに大に流行したのは、文明開国の勢に乗じたことでありましょう。
新字:又維新前後は私が著書翻訳を勉めた時代で、その著訳書の由来は福沢全集の緒言に記してあるから之を略しますが、元来私の著訳は真実私一人の発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況して序文題字など頼んだこともない。是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云う人に序文でも書かせた方が宜かったか知れないが、私は夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何に拘わらず古風な人の気に入る筈はない。ソレでもその書が殊更らに大に流行したのは、文明開国の勢に乗じたことでありましょう。
書き下し
又維新前後は私が著書飜訳を勉めた時代で、その著訳書の由来は福澤全集の緒言に記してあるから之を略しますが、元来私の著訳は真実私一人の発意で、他人の差図も受けねば他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、時の漢学者は無論、朋友たる洋学者へ草稿を見せたこともなければ、況して序文題字など頼んだこともない。是れも余り殺風景で、実は当時の故老先生とか云う人に序文でも書かせた方が宜かったか知れないが、私は夫れが嫌いだ。ソンな事かた/″\で、私の著訳書は事実の如何に拘わらず古風な人の気に入る筈はない。ソレでもその書が殊更らに大に流行したのは、文明開国の勢に乗じたことでありましょう。
現代語訳
また維新前後は、私が著書や翻訳に努めた時代で、その著訳書の由来は福沢全集の緒言に記してあるのでここでは略しますが、もともと私の著訳は、本当に私一人の発意で、他人の指図も受けず他人に相談もせず、自分の思う通りに執筆して、当時の漢学者はもちろん、友人の洋学者にも草稿を見せたことはなく、まして序文や題字などを頼んだこともありません。これもあまり殺風景で、実はその当時の故老や先生という人に序文でも書かせたほうがよかったかもしれませんが、私はそれが嫌いです。そんなことがあちこちにあって、私の著訳書は、内容のいかんにかかわらず、古風な人の気に入るはずはありません。それでもその書が特に大いに流行したのは、文明開国の勢いに乗ったことでしょう。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(1)私の考は塾に少年を集めて原書を読ませる計りが目的ではない。如何様にもしてこの鎖国の日本を開て西洋流の文明に導き、富国強兵以て世界中に後れを取らぬようにしたい。左りとて唯これを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初めにも言行齟齬しては済まぬ事だと、先ず一身の私を慎しみ、一家の生活法を謀り、他人の世話にならぬようにと心掛けて、扨一方に世の中を見て文明改進の為めに施して見たいと思う事があれば、世論に頓着せず思切て試みました。例えば前にも申した通り、学生から授業料の金を取立てる事なり、武士の魂と云う双刀を棄てゝ丸腰になる事なり、演説の新法を人に説て之を実地に施す事なり、又は著訳書に古来の文章法を破て平易なる通俗文を用うる事なり、凡そ是等は当時の古風家に嫌われる事であるが、幸に私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家ドンな学者が何を著述したって何を飜訳したって、私の出版書のように売れよう訳けはない。畢竟私の才力がエライと云うよりも、時節柄がエラかったのである。又その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱に浮かされて身の程を知らず時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われる。兎にも角にも著訳書が私の身を立て家を成す唯一の基本になって、ソレで私塾を開ても、生徒から僅ばかりの授業料を掻集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師等の所得にすることが出来たその上に、折々私の財嚢から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。 所で私の性質は全体放任主義と云おうか、又は小慾にして大無慾とでも云おうか、塾の事に就て朝夕心を用いて一生懸命、些細の事まで種々無量に心配しながら、又一方ではこの塾にブラサガッて居る身ではない、是非とも慶應義塾を永久に遺して置かなければならぬと云う義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定して居るから、随て世の中に怖いものがない。同志の後進生と相談して思う通りに事を行えば、塾中自から独立の気風を生じて世間の反りに合わぬことも多いのと、又一つには私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々と言論して、時としてはその言論が政府の癪に障ることもあろう。実を云えば私は政府に対して不平はない、役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切既往を云わず、唯今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営して呉れゝば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野とか忌に区別を立てゝ、私塾を疏外し邪魔にして、甚だしきは之を妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを云えば話も長し言葉も穢くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺の風も大に改まりて、余り酷い事はない。何れ遠からぬ中に双方打解けるように成るでしょう。
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福翁自伝・老余の半生・仕官を嫌う由縁私の生涯は終始替ることなく、少年時代の辛苦、老後の安楽、何も珍らしいことはない。今の世界に人間普通の苦楽を嘗めて、今日に至るまで大に愧ることもなく大に後悔することもなく、心静に月日を送りしは、先ず以て身の仕合せと云わねばならぬ。所で世間は広し、私の苦楽を遠方から見て色々に評論し色々に疑う者もありましょう。就中私がマンザラの馬鹿でもなく政治の事も随分知て居ながら、遂に政府の役人にならぬと云うは可笑しい、日本社会の十人は十人、百人は百人、皆立身出世を求めて役人にこそなりたがるその処に、福澤が一人これをいやがるのは不審だと、蔭で窃に評論する計りでない、現に直接に私に向て質問する者もある。啻に日本人ばかりでない、知己の外国人も私の進退を疑い、何故政府に出て仕事をせぬか、政府の好地位に立て思う事を行えば、名誉にも為り金にも為り、面白いではないかと、米国人などは毎度勧めに来たことがあるけれども、私は唯笑て取合わぬ。ソコで維新の当分は政府の連中が私を評して佐幕家の一人と認め、彼れは旧幕府に操を立てゝ新政府に仕官せぬ者である、将軍政治を悦んで王政を嫌う者である、古来、革命の歴史に前朝の遺臣と云う者があるが、福澤もその遺臣を気取て、物外に瓢然として居ながら心中無限の不平を抱いて居るに違いない、心に不平があれば新政府の為めに宜いことは考えない、油断のならぬ奴だなんて、種々様々な想像を運らして居る者の多いのは、私も大抵知て居る。所が斯く評せらるゝ前朝の遺臣殿は、久しい以前から前朝の門閥制度、鎖国主義に愛想をつかして、維新の際に幕府の忠臣義士が盛んに忠義論を論じて佐幕の気焔を吐て脱走までする時に、私は強て議論もせず、脱走連中に知て居る者があれば、余計な事をするな、負けるから罷にしろと云て止めて居た位だから、福澤を評するに前朝の遺臣論も勘定が合わぬ。前朝の遺臣と云えば維新の時に幕府の忠臣義士こそ丁度適当の嵌役なれども、この忠臣義士は前朝に忠義の一役を勤めて何時の間にか早替り、第二の忠義役を勤めて第二の忠臣義士となって居るから、是れも遺臣と云われぬ。その遺臣論は姑く擱き、私の身の進退は、前に申す通り、維新の際に幕府の門閥制度、鎖国主義が腹の底から嫌だから佐幕の気がない。左ればとて勤王家の挙動を見れば、幕府に較べてお釣りの出る程の鎖国攘夷、固よりコンな連中に加勢しようと思いも寄らず、唯ジッと中立独立と説を極めて居ると、今度の新政府は開国に豹変した様子で立派な命令は出たけれども、開国の名義中、鎖攘タップリ、何が何やら少しも信ずるに足らず、東西南北何れを見ても共に語るべき人は一人もなし、唯独りで身に叶う丈けの事を勤めて開国一偏、西洋文明の一天張りでリキンで居る内に、政府の開国論が次第々々に真成のものになって来て、一切万事改進ならざるはなし、所謂文明駸々乎として進歩するの世の中になったこそ実に有り難い仕合せで、実に不思議な事で、云わば私の大願も成就したようなものだから、最早や一点の不平は云われない。
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福翁自伝・攘夷論・攘夷論の鋒先洋学者に向う(2)夫れから同じ長州の藩士で東条礼蔵と云う人も矢張り私と同僚飜訳方で、小石川の素と蜀山人の住居と云う家に住で居た。所がその家に所謂浮浪の徒が暴込んで、東条は裏口から逃出して漸と助ったと云うような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。左ればとて自分の思う所、為す仕事は罷められるものじゃない。夫れから私は構わない、構おうと云た所が構われもせず、罷めようと云た所が罷められる訳けでない、マア/\言語挙動を柔かにして決して人に逆わないように、社会の利害と云うような事は先ず気の知れない人には云わないようにして、慎める丈け自分の身を慎んで、ソレと同時に私は専ら著書飜訳の事を始めた。その著訳の一条に就ては今コヽで別段に云う事はない、私の今年開版した福澤全集の緒言に詳に書てあるから是れは見合せるとして、その著訳事業中、即ち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々に殖えるからその教授法に力を尽し、又家の活計は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間の事には頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送て居る。或時可笑い事があった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)、誰方か知らないが御目に掛りたいと云てお侍が参りましたと下女が取次するから、「ドンナ人だと聞くと、「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟して居ますと云うから、コリャ物騒な奴だ、名は何と云う。「名はお尋ね申したが、お目に掛れば分ると云て被仰しゃいません==どうも気味の悪い奴だと思て、夫れから私は窃と覗いて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒に居た親友だ。思わず罵た。この馬鹿野郎、貴様は何だ、何ぜ名を云て呉れんか、乃公は怖くて堪らなかったと云て、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑した事がある。爾う云う世の中で洋学者もつまらぬ事に驚かされて居ました。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(5)夫からモウ一つ私の身に就て云えば、少年の時から中津の藩を出て仕舞たので、所謂藩の役人らしい公用を勤めたことがない。夫れから前にも云う通り、江戸に来て徳川の政府に雇われたからと云た所が、是れは云わば筆執る飜訳の職人で、政治に与かろう訳けもない。只職人の積りで居るのだから、政治の考と云うものは少しもない。自分でも仕ようとも思わなければ、又私は出来ようとも思わない。仮令い又私が奮発して、幕府なり上方なり何でも都合の宜い方に飛出すとした処が、人の下流に就て仕事をすることは固より出来ず、中津藩の小士族で他人に侮辱軽蔑されたその不平不愉快は骨に徹して忘れられないから、今更ら他人に屈してお辞儀をするのは禁物である。左れば大に立身して所謂政治界の大人とならんか、是れも甚だ面白くない。前にも申した通り私は儀式の箱に入れられて小さくなるのを嫌う通りに、その通りに儀式張て横風な顔をして人を目下に見下だすことも亦甚だ嫌いである。例えば私は少年の時から人を呼棄にしたことがない。車夫、馬丁、人足、小商人の如き下等社会の者は別にして、苟も話の出来る人間らしい人に対して無礼な言葉を用いたことはない。青年書生は勿論、家内の子供を取扱うにもその名を呼棄にすることは出来ない。左る代りに政治社会の歴々とか何とか云う人を見ても何ともない。夫れも白髪の老人とでも云えば老人相応に待遇はすれども、その人の官爵が高いなんて高慢な風をすれば唯可笑しいばかりで、話をするのも面白くない。是れは私が持て生れた性質か、又は書生流儀の習慣か、老年の今日に至るまでも同じ事で、之を要するに如何しても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にも独り別物になって居たことゝ、自分で自分の事を推察して居ます。ソレはソレとして、
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福翁自伝・品行家風・一身の品行、亦自から効力あり又私の内が夫婦親子睦じくて私の行状が正しいからと云て、特に誉める程の事でもない。世の中に品行方正の君子は幾らもある。私も亦、これが人間唯一の目的で一身の品行修まりて能事終るなんて自慢をするような馬鹿でもないと自から信じて居るが、扨又これが妙なもので、社会の交際に関係する所は甚だ広くて、意外の辺に力を及ぼすことがあるその一例を申せば、旧藩の奥平家に対して私は如何なる者ぞと尋ぬるに、見る影もなき貧小士族が、洋学など修業して異様な説を唱え、或は外国に行き、又或は外国の書を飜訳して大言を吐散らし、剰さえ儒流を軽蔑して憚る所を知らずと云えば、是れは所謂異端外道に違いない。同藩一般の見る所でこの通りなれば、藩主の奥なんぞにはドンな報告が這入て居るか知れない。兎に角に福澤諭吉は大変な奴だと折紙が付て居たに違いない。所が物換り星移り、段々時勢が変遷して王政維新の世の中になって見れば、藩論も自から面目を改め、世間一般西洋流の喧ましい今日、福澤もマンザラでなし、或は之を近づけて何かの役に立つこともあろうと云うような説がチラホラと涌て来たその時に、嶋津祐太郎と云う奥平家の元老は、頗る事の能く分る、云わば卓識の君子で、時勢の緩急を視察して、コリャ福澤を疏外するは不利であると云うことに着眼して居る折柄、奥平家の大奥に芳蓮院様と云う女隠居がある、この貴婦人は一橋家から奥平家に下て来た由緒ある身分で、最早や余程の老年でもあり、一家無上の御方様と崇められて居る。ソコで嶋津が先ずその御隠居様に対して色々西洋の話をする中に、彼の国には文学武備、富国強兵、医術も精しく航海術も巧なり、その中には随分日本の風俗習慣に違た事も数々ありますが、爰に西洋流義に不思議なるは男女の間柄で、男女相互に軽重なく、如何なる身分の人でも一夫一婦に限て居ます、是れ丈けは西洋の特色で御座ると云う所を持込んだ所が、その御隠居様も若い時には直接に身に覚えがある。この話を聞て心を動かさずには居られない。恰も豁然発明した様子で、ソレから福澤を近づける気になって、次第々々に奥向の方に出入の道が開けて、御隠居様を始め所謂御上通りの人に逢うて見れば、福澤の外道も唯の人間で、角も生えて居なければ尻尾のある者でもない、至極穏かな人間だと云う所からして、段々懇親になったと云うその話は、程経て後に内々嶋津から聞きました。シテ見ると一夫一婦の説も隠然の中には随分勢力のあるもので、就ては今の世に多妻の悪弊を除て文明風にするなんと論ずるは野暮だと云うような説があるけれども、畢竟負借みの苦しい遁げ口上で取るに足らない。一夫一婦の正論決して野暮でない、世間の多数は同主義で、殊に上流の婦人は悉く此方の味方であるから、私の身がこの先き何時まで生きて居るか知れぬけれども、有らん限りの力を尽して、前後左右を顧みずドンな奴を敵にしても構わぬ、多妻法を取締めて、少しでもこの人間社会の表面だけでも見られるような風にして遣ろうと思て居ます。
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福翁自伝・老余の半生・行路変化多し(1)回顧すれば六十何年、人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞く所であるが、私の夢は至極変化の多い賑かな夢でした。旧小藩の小士族、窮屈な小さい箱の中に詰込まれて、藩政の楊枝を以て重箱の隅をほじくるその楊枝の先きに掛た少年が、ヒョイと外に飛出して故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教をも打遣て西洋学の門に入り、以前に変た書を読み、以前に変った人に交わり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば考は段々広くなって、旧藩は扨置き日本が挟く見えるようになって来たのは、何と賑かな事で大きな変化ではあるまいか。或はその間に艱難辛苦など述立てれば大造のようだが、咽元通れば熱さ忘れると云うその通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞えば何ともない。貧乏は苦しいに違いないが、その貧乏が過ぎ去た後で昔の貧苦を思出して何が苦しいか、却て面白いくらいだから、私は洋学を修めて、その後ドウやら斯うやら人に不義理をせず頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思て居た処に、又図らずも王政維新、いよ/\日本国を開て本当の開国となったのは難有い。幕府時代に私の著わした西洋事情なんぞ、出版の時の考には、天下にコンなものを読む人が有るか無いか夫れも分らず、仮令い読んだからとて之を日本の実際に試みるなんて固より思いも寄らぬことで、一口に申せば西洋の小説、夢物語の戯作くらいに自から認めて居たものが、世間に流行して実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情の類でない、一段も二段も先きに進んで思切た事を断行して、アベコベに著述者を驚かす程のことも折々見えるから、ソコで私も亦以前の大願成就に安んじて居られない。
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