福翁自伝 / 王政維新・教育の方針は数理と独立(2)
右の通り私は唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計りでない、一歩を進めて所謂腐儒の腐説を一掃して遣ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞など云うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分漢書を読で居る。読で居ながら知らない風をして毒々敷い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵知て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論、詩経、書経のような経義でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前中津の大儒白石先生の賜である。どの経史の義を知て、知らぬ風をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書たものにも無遠慮に攻撃するから、是れぞ所謂獅子身中の虫で、漢学の為めには私は実に悪い外道である。斯くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠まっては、迚も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽くまでも信じて疑わず、如何にもして彼等を救出して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽し、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々普ねしと雖も、中年以上の重なる人は迚も洋学の佳境に這入ることは出来ず、何か事を謀り事を断ずる時には余儀なく漢書を便にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分危ない事である。
書き下し
右の通り私は唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計りでない、一歩を進めて所謂腐儒の腐説を一掃して遣ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞など云うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分漢書を読で居る。読で居ながら知らない風をして毒々敷い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵知て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論、詩経、書経のような経義でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前中津の大儒白石先生の賜である。どの経史の義を知て、知らぬ風をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書たものにも無遠慮に攻撃するから、是れぞ所謂獅子身中の虫で、漢学の為めには私は実に悪い外道である。斯くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠まっては、迚も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽くまでも信じて疑わず、如何にもして彼等を救出して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽し、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々普ねしと雖も、中年以上の重なる人は迚も洋学の佳境に這入ることは出来ず、何か事を謀り事を断ずる時には余儀なく漢書を便にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分危ない事である。
現代語訳
右の通り、私はただ漢学を信仰せず、漢学に重きを置かないだけでなく、一歩を進めて、いわゆる腐儒の腐説を一掃してやろうと、若いときから心がけました。そこで普通一様の洋学者や通詞のような者が漢学者を悪く言うのは普通の話で、あまり害にもなりません。ところが私はずいぶん漢書を読んでいます。読んでいながら知らない風をして毒々しいことを言うから、憎まれずにはいられません。他人に対しては本当に素人のような風をしていますが、漢学者の使う故事などは大抵知っています。それは前にも申した通り、少年のときから難しい経史をやかましい先生に授けられ、本当に勉強したからです。左国史漢はもちろん、詩経・書経のような経義でも、また老子・荘子のような妙で面白いものでも、先生の講義を聞き、また自分で研究しました。これは豊前中津の大儒白石先生のおかげです。 どの経史の義も知っていて知らぬ風をして、折々漢学の急所のようなところを押さえて、話にも書いたものにも遠慮なく攻撃しますから、これこそいわゆる獅子身中の虫で、漢学のためには私は実に悪い外道です。かくまで私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、古く腐った漢説が後進の少年たちの頭の中に居座っては、とても西洋の文明は国に入ることができないと、あくまで信じて疑わず、何とかして彼らを救い出して、わが信ずるところに導こうと、ありったけの力を尽くしたからです。私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、俺が一人で相手になろう、というような決心でした。 そこで政府をはじめ世間一般の様子を見れば、文明の教育はやや広まったとはいえ、中年以上の主だった人はとても洋学の佳境に入ることができず、何か事を謀り、事を断ずるときには、やむを得ず漢書を頼りにして、万事それから割り出すという風潮の中にいて、その大切で霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にしているのですから、私の身のためにはずいぶん危ないことです。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・幼少の時・左伝通読十一偏その中、塾も二度か三度か更えた事があるが、最も多く漢書を習たのは、白石と云う先生である。其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何なるものを読だかと申すと、経書を専らにして論語、孟子は勿論、すべて経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰て善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き、その先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞うのを、私は全部通読、凡そ十一度び読返して、面白い処は暗記して居た。夫れで一ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑して居た。広瀬淡窓などの事は、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと云て居られました。先生が爾う云えば門弟子も亦爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下して居て、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章と云われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで吃た所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造な剣幕で、先生から爾う教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付合わぬ。野田笛浦と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云うから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。
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福翁自伝・緒方の塾風・漢家を敵視す若しも真実その苦学の目的如何なんて問う者あるも、返答は唯漠然たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖論を云えば固より開国なれども、甚だしく之を争う者もなく、唯当の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも蚊でも支那流は一切打払いと云うことは何処となく定まって居たようだ。儒者が経史の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯可笑しく思うのみ。殊に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島に花岡と云う漢医の大家があって、その塾の書生は孰れも福生と見え服装も立派で、中々以て吾々蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、固より言葉も交えず互に睨合うて行違うその跡で、「彼の様ァ如何だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々チンプンカンの講釈を聞て、その中で古く手垢の附てる奴が塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等を根絶やしにして呼吸の音を止めて遣るからなんてワイ/\云たのは毎度の事であるが、是れとても此方に如斯と云う成算も何もない。唯漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔を吐くばかりの事である。
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福翁自伝・幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・王政維新・教育の方針は数理と独立(1)畢竟私がこの日本に洋学を盛にして、如何でもして西洋流の文明富強国にしたいと云う熱心で、その趣は慶應義塾を西洋文明の案内者にして、恰も東道の主人と為り、西洋流の一手販売、特別エゼントとでも云うような役を勤めて、外国人に頼まれもせぬ事を遣て居たから、古風な頑固な日本人に嫌われたのも無理はない。元来私の教育主義は自然の原則に重きを置て、数と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営は都てソレから割出して行きたい。又一方の道徳論に於ては、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重苟も卑劣な事は出来ない、不品行な事は出来ない、不仁不義、不忠不孝ソンな浅ましい事は誰に頼まれても、何事に切迫しても出来ないと、一身を高尚至極にし所謂独立の点に安心するようにしたいものだと、先ず土台を定めて、一心不乱に唯この主義にのみ心を用いたと云うその訳けは、古来東洋西洋相対してその進歩の前後遅速を見れば、実に大造な相違である。双方共々に道徳の教もあり、経済の議論もあり、文に武におの/\長所短所ありながら、扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数、最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下に居らればならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である。彼の政治家が国事を料理するも、実業家が商売工業を働くも、国民が報国の念に富み、家族が団欒の情に濃なるも、その大本を尋れば自から由来する所が分る。近く論ずれば今の所謂立国の有らん限り、遠く思えば人類のあらん限り、人間万事、数理の外に逸することは叶わず、独立の外に依る所なしと云うべきこの大切なる一義を、我日本国に於ては軽く視て居る。是れでは差向き国を開て西洋諸強国と肩を並べることは出来そうにもしない。全く漢学教育の罪であると深く自から信じて、資本もない不完全な私塾に専門科を設けるなどは迚も及ばぬ事ながら、出来る限りは数理を本にして教育の方針を定め、一方には独立論の主義を唱えて、朝夕一寸した話の端にもその必要を語り、或は演説に説き或は筆記に記しなどしてその方針に導き、又自分にも様々工風して躬行実践を勉め、ます/\漢学が不信仰になりました。今日にても本塾の旧生徒が社会の実地に乗出して、その身分職業の如何に拘らず物の数理に迂闊ならず、気品高尚にして能く独立の趣意を全うする者ありと聞けば、是れが老余の一大楽事です。
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『学問のすゝめ』四編・学者の職分を論ず・漢を体にして洋を衣にするしかるにまた、これに依頼すべからざるの事情あり。近来この流の人ようやく世間に増加し、あるいは横文を講じ、あるいは訳書を読み、もっぱら力を尽くすに似たりといえども、学者あるいは字を読みて義を解さざるか、あるいは義を解してこれを事実に施すの誠意なきか、その所業につきわが輩の疑いを存するもの少なからず。その疑いを存するとは、この学者士君子、みな官あるを知りて私あるを知らず、政府の上に立つの術を知りて、政府の下に居るの道を知らざるの一事なり。畢竟、漢学者流の悪習を免れざるものにて、あたかも漢を体にして洋を衣にするがごとし。
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