福翁自伝 / 幼少の時・左伝通読十一偏
その中、塾も二度か三度か更えた事があるが、最も多く漢書を習たのは、白石と云う先生である。其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何なるものを読だかと申すと、経書を専らにして論語、孟子は勿論、すべて経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰て善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き、その先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞うのを、私は全部通読、凡そ十一度び読返して、面白い処は暗記して居た。夫れで一ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑して居た。広瀬淡窓などの事は、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと云て居られました。先生が爾う云えば門弟子も亦爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下して居て、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章と云われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで吃た所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造な剣幕で、先生から爾う教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付合わぬ。野田笛浦と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云うから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。
書き下し
その中、塾も二度か三度か更えた事があるが、最も多く漢書を習たのは、白石と云う先生である。其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何なるものを読だかと申すと、経書を専らにして論語、孟子は勿論、すべて経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰て善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き、その先きは私独りの勉強、歴史は史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞うのを、私は全部通読、凡そ十一度び読返して、面白い処は暗記して居た。夫れで一ト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑して居た。広瀬淡窓などの事は、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと云て居られました。先生が爾う云えば門弟子も亦爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下して居て、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章と云われるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで吃た所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造な剣幕で、先生から爾う教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。白石先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付合わぬ。野田笛浦と云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云うから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。
現代語訳
そのうち、塾も二度か三度か替えたことがありますが、最も多く漢書を習ったのは、白石という先生のところです。そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を理解することは何の苦労もなく、思いのほか早く上達しました。白石の塾にいて漢書はどのようなものを読んだかと申しますと、経書を専らにして、論語、孟子はもちろん、すべて経義の研究に努め、とくに先生が好きと見えて、詩経に書経というものは、本当に講義をしていただいてよく読みました。それから蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子というようなものもよく講義を聞き、その先は私ひとりの勉強で、歴史は史記をはじめ前後漢書、晋書、五代史、元明史略というようなものも読み、とくに私は左伝が得意で、たいていの書生が左伝十五巻のうち三、四巻で終わりにするのを、私は全部通読し、およそ十一度読み返して、面白いところは暗記していました。それで一通り、漢学者の前座くらいにはなっていましたが、そもそも学問の流派は亀井風で、私の先生は亀井を深く信仰していて、あまり詩を作ることなどは教えず、むしろ冷笑していました。広瀬淡窓などのことは、あいつは発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けない、何でもない奴だとおっしゃいました。先生がそういえば門弟もまたそういう気になるのが不思議です。淡窓ばかりでなく、頼山陽なども甚だ信用せず、まことに見下していて、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章といえるなら、誰でも文章のできない者はあるまい。たとえ舌足らずで吃ったところで意味は通じるというようなものだ」などと、たいへんな剣幕で、先生からそう教え込まれたので、私たちも山陽外史のことを軽く見ていました。白石先生ばかりでありません。私の父がまたそのとおりで、父が大阪にいるとき、山陽先生は京都にいて、ぜひ交際しなければならないはずなのに、ちっとも付き合わない。野田笛浦という人が父の親友で、野田先生はどんな人か知りませんが、山陽を疎んじて笛浦に親しむといえば、笛浦先生は浮ついたところのない学者という意味でしたか。筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに、経義に一説を立てたといいますから、その流れを汲む人々は、何となく山陽流を面白く思わないのでしょう。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・教育の方針は数理と独立(2)右の通り私は唯漢学が不信仰で、漢学に重きを置かぬ計りでない、一歩を進めて所謂腐儒の腐説を一掃して遣ろうと若い時から心掛けました。ソコで尋常一様の洋学者や通詞など云うような者が漢学者の事を悪く云うのは普通の話で、余り毒にもならぬ。所が私は随分漢書を読で居る。読で居ながら知らない風をして毒々敷い事を言うから憎まれずには居られない。他人に対しては真実素人のような風をして居るけれども、漢学者の使う故事などは大抵知て居る、と云うのは前にも申した通り、少年の時から六かしい経史をやかましい先生に授けられて本当に勉強しました。左国史漢は勿論、詩経、書経のような経義でも、又は老子荘子のような妙な面白いものでも、先生の講義を聞き又自分に研究しました。是れは豊前中津の大儒白石先生の賜である。どの経史の義を知て、知らぬ風をして折々漢学の急処のような所を押えて、話にも書たものにも無遠慮に攻撃するから、是れぞ所謂獅子身中の虫で、漢学の為めには私は実に悪い外道である。斯くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、陳く腐れた漢説が後進少年生の脳中に蟠まっては、迚も西洋の文明は国に入ることが出来ないと飽くまでも信じて疑わず、如何にもして彼等を救出して我が信ずる所に導かんと、有らん限りの力を尽し、私の真面目を申せば、日本国中の漢学者は皆来い、乃公が一人で相手になろうと云うような決心であった。ソコで政府を始め世間一般の有様を見れば、文明の教育稍々普ねしと雖も、中年以上の重なる人は迚も洋学の佳境に這入ることは出来ず、何か事を謀り事を断ずる時には余儀なく漢書を便にして、万事ソレから割出すと云う風潮の中に居て、その大切な霊妙不思議な漢学の大主義を頭から見下して敵にして居るから、私の身の為めには随分危ない事である。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・幼少の時・門閥制度は親の敵・年十四、五歳にして始めて読書に志す如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人がない。私の兄だからと云て兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦たった一人で、下女下男を置くと云うことの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜を拵えたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛もない。云わばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を続むとか大学を読む位の事は遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊に誰だって本を読むことの好な子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから休でばかり居て何もしない。手習もしなければ本も読まない。根っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処に知て居る者は皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云うのは外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでしょう。夫れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始めました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのと云うのに、私は孟子の素読をすると云う次第である。所が茲に奇な事は、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、能く其の意味を解して、朝の素読に教えて呉れた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許りでその意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら訳けはない。
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福翁自伝・品行家風・不風流の由来元来私は生れ付き殺風景でもあるまい、人間の天性に必ず無芸殺風景と約束があるでもなかろうと思うが、何分私の性質と云うよりも少年の時から様々の事情がコンな男にして仕舞たのでしょう。先ず第一に私は幼少の時から教育の世話をして呉れる者がないので、ロクに手習をせずに成長したから、今でも書が出来ない。成長の後でも自分で手本を習たら宜さそうなものだが、その時は既に洋学の門に入て天下の儒者流を目の敵にして、儒者のすることなら一から十まで皆気に入らぬ、就中その行状が好かない。口に仁義忠孝など饒舌りながら、サアと云うときには夫れ程に意気地はない。殊に不品行で酒を飲で詩を作て書が旨いと云えば評判が宜い。都て気に喰わぬ。よし/\洋学流の吾々は反対に出掛けて遣ろうと云う気になって、恰も江戸の剣術全盛の時代に刀剣を売払て仕舞い、兼て嗜きな居合も罷めて知らぬ風をして居たような塩梅式に、儒者の奴等が詩を作ると云えば此方は態と作らずに見せよう、奴等が書を善くすると云えば此方は殊更らに等閑にして善く書かずに見せようと、飛だ処に力身込で手習をしなかったのが生涯の失策。私の家の遺伝を云えば、父も兄も文人で、殊に兄は書も善くし、画も出来、篆刻も出来る程の多芸な人に、その弟はこの通りな無芸無能、書画は扨置き骨董も美術品も一切無頓着、住居の家も大工任せ、庭園の木石も植木屋次第、衣服の流行など何が何やら少しも知らず又知ろうとも思わず、唯人の着せて呉れるものを着て居る。或時家内の留守に急用が出来て外出のとき、着物を着替えようと思い、箪笥の引出しを明けて一番上にある着物を着て出て、帰宅の上、家内の者が私の着て居るのを見て、ソレは下着だと云て大に笑われたことがある。殺風景も些と念入の殺風景で、決して誉めた話でない。畢竟少年の時から種々様々の事情に逐われてコンな事に成行き、生涯これで終るのでしょう。兎角世間の人の悦んで居るような事は、私には楽みにならぬ、誠に損な性分です。ダカラ近来は芝居を見物したり、又は宅に芸人など呼ぶこともあるが、是れとて無上の快楽事とも思われず、マア/\児孫を集めて共に戯れ、色々な芸をさせたり嗜きな物を馳走したりして、一家内の長少睦しく互に打解けて談り笑うその談笑の声を一種の音楽として、老余の楽みにして居ます。
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福翁自伝・緒方の塾風・漢家を敵視す若しも真実その苦学の目的如何なんて問う者あるも、返答は唯漠然たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開鎖論を云えば固より開国なれども、甚だしく之を争う者もなく、唯当の敵は漢法医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でも蚊でも支那流は一切打払いと云うことは何処となく定まって居たようだ。儒者が経史の講釈しても聴聞しようと云う者もなく、漢学書生を見れば唯可笑しく思うのみ。殊に漢医書生は之を笑うばかりでなく之を罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島に花岡と云う漢医の大家があって、その塾の書生は孰れも福生と見え服装も立派で、中々以て吾々蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、固より言葉も交えず互に睨合うて行違うその跡で、「彼の様ァ如何だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々チンプンカンの講釈を聞て、その中で古く手垢の附てる奴が塾長だ。こんな奴等が二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰て人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴等を根絶やしにして呼吸の音を止めて遣るからなんてワイ/\云たのは毎度の事であるが、是れとても此方に如斯と云う成算も何もない。唯漢法医流の無学無術を罵倒して蘭学生の気焔を吐くばかりの事である。
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『配所残筆』配所殘筆(1)我等儀、凡下之者、殊更無德短才、中々御歷々之御末席へも出座仕候者に無之候所、幼少之時分より、似合に人も存候て、御歷々方御取持被下候、此段全く我等德義の故とは不存候、天道之冥加に相成候故に可有之、愈天命をおそれ候て、物毎日用相愼候事候、 六歲より親申付候て、學問被爲仕候へ共、無器用に候て、漸八歲之頃迄に、四書五經七書詩文之書大方よみ覺候、 九歲之時、稻葉丹後守殿御來家塚田杢助我等親近付に候故、我等を林道春老弟子に仕度由賴入候、杢助序に丹後守殿迄申上候へば、幼少にて學問仕候事奇特成由被仰、於御城林道春へ直に丹後殿御賴被下候、就は杢助拙者を同道仕候而道春へ參り、道春永喜一座にて、我等に論語の序無點の唐本にて讀せ被申候、我等讀候へば、山谷も取出候て被爲讀候、永喜被申候は、幼少にと如斯讀候事奇特に候、乍然田舍學問之者師を仕候と相見え、點惡敷候由被申候、道春も永喜同意に被申候て感悅被仕、別而念頃に候て、十一歲迄以前讀候書物共又點を改、無點之本にて讀直申候、 十一歲の春、歲旦之詩を初て作候て道春へ見せ候へば、一字改被申候て、則序文を書、幼小之述作別 而感入候之由書狀被副之、和韻被仕候、 同年堀尾山城守殿家老揖斐伊豆我等へ被懸目候て、則山城守殿へ被召寄、書物を讀、伊豆是非共山城守殿へ奉公に出候樣、二百石は可被下候由申候へ共、我等親同心不仕候、
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