福翁自伝 / 王政維新・発狂病人一条米国より帰来
もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫れから亜米利加に留学して居た一条某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎、是れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付次第捕縛と云うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣て置けと云うような事でその儘にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云て一切受付けず、凡そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘棄てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和めて勧めたけれども何としても喰わない。爾うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に遇いたいと云うことを云出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々と連れて行けと云うので、ソレから新銭座に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先ず取敢えず久振りと云て茶を出して、茶も飲め、序に飯も喰えと勧めて、夫れから握飯を出して、私も喫べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試みた所が、ソコで喰出した。喰て見れば気狂いの事だから、今まで思て居たことは忘れて仕舞い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣り出すか知れない、昼夜番が要る。所が可笑しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云う位な病人を扶けて看柄して居る。爾うすると仙台の者が忍んで来る。大槻の倅なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波もなければ苦味もない。ソンナ事が塾の安全であった訳けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯う云う事は造たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々勝手にしろと、裏も表もなくその趣意で貫いて居たから、私の身も塾も危い所を無難に過したことゝ思う。
新字:もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫れから亜米利加に留学して居た一条某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎、是れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付次第捕縛と云うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣て置けと云うような事でその儘にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云て一切受付けず、凡そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘棄てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和めて勧めたけれども何としても喰わない。爾うすると、不意としたことで、その病人が福沢先生に遇いたいと云うことを云出した。福沢は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福沢に行くと云うなら颯々と連れて行けと云うので、ソレから新銭座に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先ず取敢えず久振りと云て茶を出して、茶も飲め、序に飯も喰えと勧めて、夫れから握飯を出して、私も喫べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試みた所が、ソコで喰出した。喰て見れば気狂いの事だから、今まで思て居たことは忘れて仕舞い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣り出すか知れない、昼夜番が要る。所が可笑しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云う位な病人を扶けて看柄して居る。爾うすると仙台の者が忍んで来る。大槻の倅なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波もなければ苦味もない。ソンナ事が塾の安全であった訳けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯う云う事は造たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々勝手にしろと、裏も表もなくその趣意で貫いて居たから、私の身も塾も危い所を無難に過したことゝ思う。
書き下し
もう一ヶ条。この時に仙台の書生で、以前この塾に居て夫れから亜米利加に留学して居た一条某と云うものがあって、ソレが亜米利加から帰て来た。所がこの男が発狂して居ると云う。ソレを船中で親切に看病して呉れたと云うのは、矢張り一条と同時に塾に居た柳本直太郎、是れはこの間まで愛知県の書記官をして居たが、今では市長か何かになって居るそうだ。この柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船した。その時は丁度仙台藩がいよ/\朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見付次第捕縛と云うことになって居る。ソコで横浜に来た所が、正しく仙台人だ、捕縛しようかと云うに、紛う方なき発狂人だ、ドウにも手の着けようがない。その時に寺島(宗則)が横浜の奉行をして居て、発狂人は仕方がないから打遣て置けと云うような事でその儘にしてあるその中に、病人は人を疑う病症を発して、飲食物に毒があると云て一切受付けず、凡そ一週間余り何も飲食しない。飲食しないからその儘棄てゝ置けば餓死する。ソコでいろ/\と和めて勧めたけれども何としても喰わない。爾うすると、不意としたことで、その病人が福澤先生に遇いたいと云うことを云出した。福澤は江戸に居ましょう、ソコで横浜に置くなら宜いが江戸に連れて行くのはドウかと思て、御奉行(寺島)に伺た所が、御奉行様も福澤に行くと云うなら颯々と連れて行けと云うので、ソレから新銭座に連れて来た。ソレが面白い、来た所で先ず取敢えず久振りと云て茶を出して、茶も飲め、序に飯も喰えと勧めて、夫れから握飯を出して、私も喫べるから君も一つ喫べなさい、ソレが喫べられなければ私の喫べ掛けを半分喫べなさい、毒はないじゃないかと云うようなことで試みた所が、ソコで喰出した。喰て見れば気狂いの事だから、今まで思て居たことは忘れて仕舞い、新銭座に来て安心したと見え、食気は回復して、ソレは宜いが、マダ/″\病人が何を遣り出すか知れない、昼夜番が要る。所が可笑しい。その時に薩州の者も居れば土州の者も居る、その官軍一味の者が居て、朝敵だから捕縛しようと云う位な病人を扶けて看柄して居る。爾うすると仙台の者が忍んで来る。大槻の倅なども内々見舞に来て、官軍と賊軍と塾の中で混り合て、朝敵藩の病人を看病して居ながら、何も風波もなければ苦味もない。ソンナ事が塾の安全であった訳けでしょう。真実平等区別なし、疑わんとするも疑うべき種がない。一方には脱走して賊軍に投ずるがあるかと思えば、一方にはチャンと塾に這入て居る官軍もあると云うような不思議な次第柄で、斯う云う事は造たのじゃ出来ぬ、装うても出来ぬ、私は腹の底から偏頗な考がない、少しも幕府の事を感服しなければ、官軍の事をも感服しない、戦争するなら銘々勝手にしろと、裏も表もなくその趣意で貫いて居たから、私の身も塾も危い所を無難に過したことゝ思う。
現代語訳
もう一ヶ条あります。この時に、仙台の書生で、以前この塾にいて、それからアメリカに留学していた一条某という者がありました。それがアメリカから帰ってきたところ、この男が発狂しているというのです。それを船中で親切に看病してくれたのは、やはり一条と同時に塾にいた柳本直太郎、これはこの間まで愛知県の書記官をしていましたが、今では市長か何かになっているそうです。この柳本直太郎が親切に看病して、横浜に着船しました。そのときは、ちょうど仙台藩がいよいよ朝敵になったときで、江戸中で仙台人と見れば見つけ次第捕縛ということになっています。そこで横浜に来たところ、まさしく仙台人です。捕縛しようかというと、紛れもない発狂人で、どうにも手の着けようがありません。そのとき寺島(宗則)が横浜の奉行をしていて、発狂人は仕方がないから打ち遣っておけというようなことで、そのままにしてあるうちに、病人は人を疑う症状を発し、飲食物に毒があるといって一切受け付けず、およそ一週間余り何も飲食しません。飲食しないからそのまま棄てておけば餓死します。そこでいろいろと慰めて勧めたけれども、どうしても食べません。そうすると、不意なことで、その病人が福沢先生に会いたいということを言い出しました。福沢は江戸にいましょう。横浜に置くならよいが、江戸に連れて行くのはどうかと思って、御奉行(寺島)に伺ったところ、御奉行様も福沢に行くというなら、さっさと連れて行けと言うので、それから新銭座に連れてきました。それが面白い。来たところで、まず取り敢えず久しぶりといってお茶を出して、お茶も飲め、ついでに飯も食えと勧めて、それから握り飯を出して、私も食べるから君も一つ食べなさい、それが食べられなければ私の食べかけを半分食べなさい、毒はないじゃないかというようなことで試みたところ、そこで食べ出しました。食べてみれば、気が違っていることですから、今まで思っていたことは忘れてしまい、新銭座に来て安心したとみえ、食欲は回復して、それはよいが、まだまだ病人が何をしでかすか分からない、昼夜番が要ります。ところがおかしい。そのとき薩州の者もいれば土州の者もいる。その官軍一味の者がいて、朝敵だから捕縛しようというくらいの病人を助けて看病している。そうすると仙台の者が忍んで来る。大槻の倅なども内々見舞いに来て、官軍と賊軍とが塾の中で混じり合い、朝敵藩の病人を看病していながら、何の風波もなければ苦味もない。そんなことが塾の安全であったわけでしょう。真実、平等区別なし、疑わんとしても疑うべき種がない。一方には脱走して賊軍に投ずる者があるかと思えば、一方にはちゃんと塾に入っている官軍の者もあるといったような、不思議な次第柄で、こういうことは作ったのではできない、装ってもできない。私は腹の底から偏頗な考えがなく、少しも幕府のことに感服しなければ、官軍のことにも感服しない、戦争するなら銘々勝手にしろと、裏も表もなくその趣意で貫いていたから、私の身も塾も危ないところを無難に過ごしたことと思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(2)又私は知る人の為めに尽力したことがあります。是れは唯私の物数寄ばかり、決して政治上の意味を含んで居るのでも何でもない。真実一身の道楽と云おうか、慈悲と云おうか、癇癪と云おうか、マアそんな所から大に働いたことがあります。仙台藩の留守居役を勤めて居た大童信太夫と云う人があって、旧幕府時代から私はその人と極、懇意にして居ました、と云てその人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれども兎に角に西洋文明の風を好み洋学書生を愛して楽しみにして居る所は、気品の高い名士と申して宜しい。当事諸藩の留守居役でも勤めて居れば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓にするとか云うのが江戸普通の風俗で、大童も大藩の留守居だから随分金廻わりも宜かったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、唯何でも書生を養て遣ると云うことが面白くて、書生の世話ばかりして、凡そ当時仙台の書生で大童の家の飯を喰わない者はなかろう。今の富田鉄之助を始め一人として世話にならない者はない。所が幕末の時勢段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して忽ち失敗して、その謀主は但木土佐と云う家老であると定まって、その人は腹を切て仕舞ったその後で、但木土佐が謀主だと云うけれども、その実は謀主の謀主がある、ソレは誰だと云うに大童信太夫、松倉良助の両人だと斯う云う訳けで、維新後その両人は仙台に帰て居た所が、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌り出した、既に政府は朝敵の処分をして事済になっては居るが、内からそんなことを云出して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てゝも置かれぬと云う所から、久我大納言を勅使として下向を命じた、と云う政府の趣意は甚だ旨い、この時に政府は既に処分済の後だから、成る丈け平穏を主として事を好まぬ。ソコで久我と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう、左すれば怪我人も少ないだろうと云う為めに、態と久我を択んだと云うことは、その時私も窃に聞きました。
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(6)扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
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