福翁自伝 / 再度米国行・福澤の実兄薩州に在り
亜米利加から帰て日本に着たのはその歳の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\喧しい。私は唯家に引籠て生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に行て居るとか何とか云う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に与みして居るから弟も変だと云うのは、私が動もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰すが宜い杯云うから、自からそんな評判も立つのであろうが、何は扨置き十余年前にこの世を去た兄が鹿児島に居る訳けもなし、俗世界の流言として聊か弁解もせず、又幕府に対しても所謂有志者中には種々様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切関係せず、唯独り世の中を眺めて居る中に、段々時勢が切迫して来て、或日中嶋三郎助と云う人が私の処に来て、ドウして引込んで居るか。「斯う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、直ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「宜しい、拙者がすぐに出して遣ると云て、夫れからその時に稲葉美濃守と云う老中があって、ソコへ中嶋が行て、福澤を引込まして置かないで出すようにしたら宜かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢に隠居して居るあの老爺さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に立てある。
新字:亜米利加から帰て日本に着たのはその歳の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\喧しい。私は唯家に引籠て生徒に教えたり著書翻訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福沢の実兄は鹿児島に行て居るとか何とか云う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に与みして居るから弟も変だと云うのは、私が動もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰すが宜い杯云うから、自からそんな評判も立つのであろうが、何は扨置き十余年前にこの世を去た兄が鹿児島に居る訳けもなし、俗世界の流言として聊か弁解もせず、又幕府に対しても所謂有志者中には種々様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切関係せず、唯独り世の中を眺めて居る中に、段々時勢が切迫して来て、或日中嶋三郎助と云う人が私の処に来て、ドウして引込んで居るか。「斯う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、直ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「宜しい、拙者がすぐに出して遣ると云て、夫れからその時に稲葉美濃守と云う老中があって、ソコへ中嶋が行て、福沢を引込まして置かないで出すようにしたら宜かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢に隠居して居るあの老爺さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に立てある。
書き下し
亜米利加から帰て日本に着たのはその歳の六月下旬、天下の形勢は次第に切迫してなか/\喧しい。私は唯家に引籠て生徒に教えたり著書飜訳したりして何も騒ぎはしないが、世間ではいろ/\な評判をして居る。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に行て居るとか何とか云う途方もない評判をして居る。兄が薩藩に与みして居るから弟も変だと云うのは、私が動もすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰すが宜い杯云うから、自からそんな評判も立つのであろうが、何は扨置き十余年前にこの世を去た兄が鹿児島に居る訳けもなし、俗世界の流言として聊か弁解もせず、又幕府に対しても所謂有志者中には種々様々の奇策妙案を建言する者が多い様子なれども、私は一切関係せず、唯独り世の中を眺めて居る中に、段々時勢が切迫して来て、或日中嶋三郎助と云う人が私の処に来て、ドウして引込んで居るか。「斯う/\云う次第で引込で居る。「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引込で居ると云うことがあるか、直ぐ出ろ。「出ろッたって出さぬものを出られないじゃないか。「宜しい、拙者がすぐに出して遣ると云て、夫れからその時に稲葉美濃守と云う老中があって、ソコへ中嶋が行て、福澤を引込まして置かないで出すようにしたら宜かろうと云うような事になって、夫れから再び出ることになった。その美濃守と云うのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢に隠居して居るあの老爺さんのことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今浦賀の公園に立てある。
現代語訳
アメリカから帰って日本に着いたのはその年の六月下旬で、天下の形勢は次第に切迫して、なかなかやかましい。私はただ家に引きこもって、生徒に教えたり著書や翻訳をしたりして、何も騒ぎはしませんが、世間ではいろいろな評判を立てています。だんだん聞くと、福沢の実兄は鹿児島に行っているとか何とかいう、途方もない評判を立てているのです。兄が薩藩に味方しているから弟も怪しいというのは、私がともすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰したほうがいいなどと言うので、おのずからそんな評判も立つのでしょうが、何はさておき、十余年前にこの世を去った兄が鹿児島にいるはずもなく、俗世間の流言として少しも弁解せず、また幕府に対しても、いわゆる有志者の中にはさまざまな奇策妙案を建言する者が多い様子でしたが、私は一切関係せず、ただ独り世の中を眺めているうちに、だんだん時勢が切迫してきました。ある日、中嶋三郎助という人が私のところに来て、「どうして引きこもっているのか」と言います。「こうこういう次第で引きこもっているのです」と答えると、「それはどうも飛んだことだ。この忙しい世の中にお前たちが引きこもっているということがあるか、すぐ出ろ」と言います。「出ろと言ったって、出さないものを出られないではないか」「よろしい、拙者がすぐ出してやる」と言って、それからそのとき稲葉美濃守という老中がいて、そこへ中嶋が行って、福沢を引きこもらせておかないで出すようにしたらよかろうという話になり、再び出ることになりました。その美濃守というのは旧淀藩主で、いまは箱根塔ノ沢に隠居しているあのご老人のことで、中嶋三郎助は旧浦賀の与力、箱館戦争で父子ともに討死にした立派な武士で、その碑は今、浦賀の公園に立っています。
解説
この章句が説くこと
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