福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(6)
扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
新字:扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に翻訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
書き下し
扨慶喜さんが京都から江戸に帰て来たと云うその時には、サア大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見れば唯その話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名の居る処で中々喧ましいのが、丸で無住のお寺を見たようになって、ゴロ/″\箕坐を掻て、怒鳴る者もあれば、ソット袂から小さいビンを出してブランデーを飲んでる者もあると云うような乱脈になり果てたけれども、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に飜訳抔の用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出て居ましたが、その政論流行の一例を云て見ると、或日加藤弘之と今一人、誰であったか名を覚えませぬが、二人がを着て出て来て外国方の役所に休息して居るから、私が其処へ行て、「イヤ加藤君、今日はおで何事に出て来たのかと云うと、「何事だッて、お逢いを願うと云うのは、此の時に慶喜さんが帰て来て城中に居るでしょう、ソコで色々な策士論客忠臣義士が躍気となって、上方の賊軍が出発したから何でも是れは富士川で防がなければならぬとか、イヤ爾うでない、箱根の嶮阻に拠て二子山の処で賊を鏖殺しにするが宜い、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄つべからず、吾々臣子の分として義を知るの王臣となって生けるは恩を知るの忠臣となって死するに若かずなんて、種々様々の奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気焔を吐く者が多いから、云わずと知れた加藤等もその連中で、慶喜さんにお逢いを願う者に違いない。ソコデ私が、「今度の一件はドウなるだろう、いよ/\戦争になるか、ならないか、君達には大抵分るだろうから、ドウぞ夫れを僕に知らして呉れ給え、是非聞きたいものだ。「ソレを聞いて何にするか。「何にするッて分てるではないか、是れがいよ/\戦争に極まれば僕は荷物を拵えて逸げなくてはならぬ、戦争にならぬと云えば落付て居る。その和戦如何はなか/\容易ならぬ大切な事であるから、ドウぞ知らして貰いたいと云うと、加藤は眼を丸くして、「ソンな気楽な事を云て居る時勢ではないぞ、馬鹿々々しい。「イヤ/\気楽な所ではない、僕は命掛けだ。君達は戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻迯げて行くのだからと云たら、加藤がプリ/\怒て居たことがあります。
現代語訳
さて、慶喜さんが京都から江戸に帰ってきたというその時には、さあ大変です。朝野ともに世論が沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も医者も坊主も皆政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。平生なら大広間、溜の間、雁の間、柳の間などという、大小名のいる所でなかなかやかましいのが、まるで無住の寺のようになって、ごろごろと胡坐をかいて、怒鳴る者もあれば、そっと袂から小さい瓶を出してブランデーを飲んでいる者もあるといった乱脈になり果てましたが、私は時勢を見る必要がある、城中の外国方に翻訳などの用はないけれども、見物半分に毎日のように城中に出ていました。その政論流行の一例を言ってみると、ある日、加藤弘之ともう一人、誰であったか名を覚えませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所で休息しているので、私がそこへ行って、「いや加藤君、今日は裃で何事に出てきたのか」と言うと、「何事って、お目通りを願うというのは、この時に慶喜さんが帰ってきて城中におられるでしょう。そこでいろいろな策士論客、忠臣義士が躍起になって、上方の賊軍が出発したから何でもこれは富士川で防がなければならないとか、いやそうでない、箱根の険阻に拠って二子山のところで賊を鏖殺しにするのがよい、東照神君三百年の洪業は一朝にして棄てるべからず、我々臣子の分として義を知る王臣となって生きるより、恩を知る忠臣となって死ぬるに如かずなどと、さまざまな奇策妙案を献じ、悲憤慷慨の気炎を吐く者が多い」と言うので、言わずと知れた加藤らもその連中で、慶喜さんにお目通りを願う者に違いありません。そこで私が、「今度の一件はどうなるだろう。いよいよ戦争になるか、ならないか。君たちには大抵分かるだろうから、どうかそれを僕に知らせてくれたまえ。是非聞きたいものだ」「それを聞いて何にするか」「何にするって、分かっているではないか。これがいよいよ戦争に決まれば、僕は荷物をこしらえて逃げなくてはならぬ。戦争にならぬというなら落ち着いている。その和戦いかんはなかなか容易ならぬ大切なことであるから、どうか知らせてもらいたい」と言うと、加藤は眼を丸くして、「そんな気楽なことを言っている時勢ではないぞ、馬鹿馬鹿しい」「いやいや気楽どころではない、僕は命懸けだ。君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げて行くのだから」と言ったら、加藤がぷりぷり怒っていたことがあります。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・王政維新・幕府の攘夷主義(8)その前に慶喜さんが東帰して来たときに、政治上の改革とでも云うか種々様々な役人が出来た。可笑しくて堪らない。新潟奉行に誰が命ぜられて、何処の代官に誰がなる。甚だしきに至ては逃去て来た後の兵庫奉行になった人さえあって、名義上の奉行だけは此方に出来て居る。夫れから又御目附になるもあれば、御使番になるものもある。何でも加藤弘之、津田真一(真道)なども御目附か御使番かになって居たと思う。私にも御使番になれと云う。奉書到来と云う儀式で、夜中差紙が来たが、真平御免だ、私は病気で御座ると云て取合わない。夫れから段々切迫して官軍(上方勢)が這入り込んで、ソロ/\鎮将府と云うようなものが江戸に出来て、慶喜さんは水戸の方に行くと斯うなったので、是れは慶応四年即ち明治元年春からの騒ぎで、その時に私は芝の新銭座に屋敷が買ってあったから引越さなければならぬ。その屋敷の地坪は四百坪、長屋が一棟に土蔵が一つある切りだから、生徒の為めに塾舎も拵えなければならず、又私の住居も拵えなければならぬ。扨その普請の一段になった所で、江戸市中大騒動の最中、却て都合が宜い。八百八町只の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物を搦げて田舎に引越すと云うような者ばかり、手廻しの宜い家では竈の銅壺まで外して仕舞て、自分は土竈を拵えて飯を焚て居る者もある。この最中に私が普請を始めた処が、大工や左官の悦びと云うものは一方ならぬ。安いにも/\、何でも飯が喰われさえすれば宜い、米の代さえあれば働くと云う訳けで、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯々と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。
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