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福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(10)

此処が宜かろう、罷り違ていよ/\ドン/″\遣るようにならば、此処へ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くより外ないと云うので、いよ/\セッパ詰たその時に、私は伝馬船を五、六日の間雇て、新銭座の浜辺に繋いで置たことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へ行て、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、一(総領の一太郎氏なり)と捨(次男の捨次郎氏なり)、家内と子供を連れて其処へ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が入込んで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。既に奥平の屋敷が汐留にあって、彼処に居る(別室に居る年寄を指して)一太郎のお祖母さんがその屋敷に居るので、五歳ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処に泊て居た所が、奥平屋敷のツヒ近所に増山と云う大名屋敷があって、その屋敷へ不逞の徒が何人とか籠て居ると云うので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\遣て居る。夫れから捕まえられたとか斬られたとか、或は奥平屋敷の溝の中に人が斬倒されて、ソレを又上から鎗で突たと云うような大騒動。所で私の倅はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに遣ろうと云ても遣ることも出来ない。夫れ是れする中に夕方になった所で事は鎮まって仕舞たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって締りが付て居るから安心しなさいと頻りに和めて一寸とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に思たとは大違い、何ともない。

書き下し

此処が宜かろう、罷り違ていよ/\ドン/″\遣るようにならば、此処へ逃げて来よう、けれども表から行かれない、行かれないから海岸から行くより外ないと云うので、いよ/\セッパ詰たその時に、私は伝馬船を五、六日の間雇て、新銭座の浜辺に繋いで置たことがある。サアいよ/\と云うときに、家内の者をその船に乗せて海の方からその紀州の屋敷へ行て、土手の間に隠れて居ようと云う覚悟。その時に私の処の子供が二人、一(総領の一太郎氏なり)と捨(次男の捨次郎氏なり)、家内と子供を連れて其処へ行こうと云う覚悟をして居た所が、ソレ程心配にも及ばず、追々官軍が入込んで来た所が存外優しい、決して乱暴な事をしない。既に奥平の屋敷が汐留にあって、彼処に居る(別室に居る年寄を指して)一太郎のお祖母さんがその屋敷に居るので、五歳ばかりの一太郎が前夜からお祖母さんの処に泊て居た所が、奥平屋敷のツヒ近所に増山と云う大名屋敷があって、その屋敷へ不逞の徒が何人とか籠て居ると云うので、長州の兵が取囲んで、サア戦争だ、ドン/″\遣て居る。夫れから捕まえられたとか斬られたとか、或は奥平屋敷の溝の中に人が斬倒されて、ソレを又上から鎗で突たと云うような大騒動。所で私の倅はお祖母さんの処に居る、奥平の屋敷も焼かれて仕舞うだろう、あの子とお祖母さんはドウなろうかと大変な心配で、迎いに遣ろうと云ても遣ることも出来ない。夫れ是れする中に夕方になった所で事は鎮まって仕舞たが、その時でも大変に優しくて、ジッとして居ればドウもしない、何もこの内に居る者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、チャンと軍令と云うものがあって締りが付て居るから安心しなさいと頻りに和めて一寸とも手を触れないと云う一例でも、官軍の存外優しかったことが分る。前に思たとは大違い、何ともない。

現代語訳

ここがよかろう、まかり違っていよいよどんどんやるようになったら、ここへ逃げて来よう、けれども表からは行かれない、行かれないから海岸から行くよりほかないというので、いよいよ切羽詰まったときに備えて、私は伝馬船を五、六日の間雇って、新銭座の浜辺に繋いでおいたことがあります。さあいよいよというときに、家内の者をその船に乗せて海のほうから紀州の屋敷へ行って、土手の間に隠れていようという覚悟です。そのとき私の家の子供が二人、一太郎(総領の一太郎氏です)と捨次郎(次男の捨次郎氏です)、家内と子供を連れてそこへ行こうと覚悟をしていたところが、それほど心配にも及ばず、追々官軍が入り込んできたところが、存外優しく、決して乱暴なことをしません。すでに奥平の屋敷が汐留にあって、そこにいる(別室にいる年寄を指して)一太郎のお祖母さんがその屋敷にいるので、五歳ばかりの一太郎が前の晩からお祖母さんのところに泊まっていたところ、奥平屋敷のすぐ近所に増山という大名屋敷があって、その屋敷へ不逞の徒が何人とか籠っているというので、長州の兵が取り囲んで、さあ戦争だ、どんどんやっています。それから捕まえられたとか斬られたとか、あるいは奥平屋敷の溝の中に人が斬り倒されて、それをまた上から槍で突いたというような大騒動。ところで私の倅はお祖母さんのところにいる、奥平の屋敷も焼かれてしまうだろう、あの子とお祖母さんはどうなるだろうと、大変な心配で、迎えにやろうと言ってもやることもできません。そうこうするうちに夕方になって、事は鎮まってしまいましたが、そのときでも大変に優しく、じっとしていればどうもしない、何もこの内にいる者に怪我をさせようともしなければ乱暴もしない、ちゃんと軍令というものがあって締まりがついているから安心しなさいと、しきりに和めて、ちょっとも手を触れないという一例でも、官軍の存外優しかったことが分かります。前に思ったとは大違いで、何ともありません。

解説

福沢は、いざというときのために伝馬船を雇い、海から紀州藩の屋敷に逃げる準備をしていました。実際には、近所で戦闘があっても新政府軍は規律が保たれており、じっとしていれば何もしないと住民を落ち着かせたと語ります。祖母のもとに泊まっていた長男一太郎の安否を案じる場面は、父としての実感がこもっています。事前に想定していた最悪が、実際には起きなかったという経験は、恐れを正確に見積もる大切さを教えます。備えは怠らず、噂や先入観で怯えすぎない、というバランスが読み取れます。

この章句が説くこと

伝馬船避難官軍軍令一太郎備え

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