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福翁自伝 / 暗殺の心配・床の下から逃げる積り・暗殺の歴史

ソレに就ては色々面白い話がある。今この三田の屋敷の門を這入て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請をするとき、私は大工に命じて家の床を少し高くして、押入の処に揚板を造て置たと云うのは、若し例の奴等に踏込まれた時に、旨く逃げられゝば宜いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処から逃出そうと云う私の秘計で、今でも彼処の家は爾うなって居ましょう。 その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、詰り私独りの苦労で、実に馬鹿気た事ですが、夫れは差置き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は唯新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は穢れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々外国人を暗打にしたこともある。併しその若武者も日本人を憎む訳けはないから、私などが仮令い時の洋学書生であっても災に罹る筈はない。大阪修業中は勿論、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜人の斬られたことなどは、唯その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄に進歩して殺人の法が綿密になり、筋道が分り、区域が広くなり、之に加うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊大老の事変後は世上何となく殺気を催して、手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云うような風潮になって来ました。是れが即ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、然るに幕府の攘夷論は兎角因循姑息に流れて埒が明かぬ、即ち京都の御趣意に背くものである、尊王の大義を弁えぬものである、外国人に媚びるものである、と斯う云えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。殊に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。

書き下し

ソレに就ては色々面白い話がある。今この三田の屋敷の門を這入て右の方にある塾の家は、明治初年私の住居で、その普請をするとき、私は大工に命じて家の床を少し高くして、押入の処に揚板を造て置たと云うのは、若し例の奴等に踏込まれた時に、旨く逃げられゝば宜いが、逃げられなければ揚板から床の下に這入て其処から逃出そうと云う私の秘計で、今でも彼処の家は爾うなって居ましょう。 その大工に命ずる時に何故と云うことは云われない、又家内の者にも根ッから面白い話でないから何とも云うことが出来ぬ、詰り私独りの苦労で、実に馬鹿気た事ですが、夫れは差置き、私の見る処で、我開国以来世に行われた暗殺の歴史を申さんに、最初は唯新開国の人民が外国人を嫌うと云うまでの事で、深い意味はない。外国人は穢れた者だ、日本の地には足踏みもさせられぬと云うことが国民全体の気風で、その中に武家は双刀を腰にして気力もあるから、血気の若武者は折々外国人を暗打にしたこともある。併しその若武者も日本人を憎む訳けはないから、私などが仮令い時の洋学書生であっても災に罹る筈はない。大阪修業中は勿論、江戸に来ても当分は誠に安心、何も心配したことはない。例えば開国の初に、横浜で露西亜人の斬られたことなどは、唯その事変に驚くばかりで自分の身には何とも思わざりしに、その後間もなく外人嫌いの精神は俄に進歩して殺人の法が綿密になり、筋道が分り、区域が広くなり、之に加うるに政治上の意味をも調合して、万延元年、井伊大老の事変後は世上何となく殺気を催して、手塚律蔵、東条礼蔵は洋学者なるが故にとて長州人に襲撃せられ、塙二郎は国学者として不臣なりとて何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は外国品を売買して国の損害するとて苦しめらるゝと云うような風潮になって来ました。是れが即ち尊王攘夷の始りで、幕府が王室に対する法は多年来何も相替ることはなけれども、京都の御趣意は攘夷一天張りであるのに、然るに幕府の攘夷論は兎角因循姑息に流れて埒が明かぬ、即ち京都の御趣意に背くものである、尊王の大義を弁えぬものである、外国人に媚びるものである、と斯う云えば、その次には洋学者流を売国奴と云うのも無理はない。サア洋学者も怖くなって来た。殊に私などは同僚親友の手塚東条両人まで侵されたと云うのであるから、怖がらずには居られない。

現代語訳

それについては、いろいろ面白い話があります。今この三田の屋敷の門を入って右の方にある塾の家は、明治初年の私の住居で、その普請をするとき、私は大工に命じて、家の床を少し高くして、押入れのところに揚げ板をつくっておきました。これは、もし例の連中に踏み込まれたとき、うまく逃げられればよいが、逃げられなければ揚げ板から床下に入って、そこから逃げ出そうという私の秘密の計画で、今でもあの家はそうなっているでしょう。 その大工に命ずるとき、なぜということは言えず、また家内の者にも、まったく面白い話ではないので何とも言うことができません。つまり私一人の苦労で、実に馬鹿げたことですが、それはさておき、私の見るところで、わが国の開国以来、世に行われた暗殺の歴史を申しましょう。最初はただ、新たに開国した人民が外国人を嫌うというだけのことで、深い意味はありませんでした。外国人は穢れた者だ、日本の地には足を踏み入れさせられないということが国民全体の気風で、その中でも武家は二本の刀を腰にして気力もあるから、血気盛んな若武者は折々外国人を暗殺することもありました。しかしその若武者も日本人を憎むわけはないから、私などがたとえその時の洋学書生であっても、災難に遭うはずはありません。大阪で修業中はもちろん、江戸に来てもしばらくは本当に安心で、何も心配したことはありません。たとえば開国の初め、横浜でロシア人が斬られたことなども、ただその事変に驚くばかりで、自分の身には何とも思いませんでしたが、その後まもなく、外人嫌いの精神は急に進歩して、殺人の方法が綿密になり、筋道が分かり、区域が広くなり、これに加えて政治上の意味も調合して、万延元年、井伊大老の事変の後は、世間に何となく殺気が漂い、手塚律蔵・東条礼蔵は洋学者だからとして長州人に襲撃され、塙二郎は国学者として不臣だとして何者かに首を斬られ、江戸市中の唐物屋は、外国品を売買して国に損害を与えるとして苦しめられるという風潮になってきました。これがいわゆる尊王攘夷の始まりで、幕府が王室に対する法は、多年来何も変わりはないけれども、京都の御趣意は攘夷一点張りであるのに、幕府の攘夷論は、とかく因循姑息に流れて埒が明かない。すなわち京都の御趣意に背くものである。尊王の大義をわきまえないものである。外国人に媚びるものである。こう言えば、その次には洋学者の輩を売国奴と言うのも無理はありません。さあ洋学者も怖くなってきました。ことに私などは、同僚で親友の手塚・東条の両人まで襲われたというのですから、怖がらずにはいられません。

解説

福沢は、暗殺への備えとして、住居の床下に逃げ道を作っていました。誰にも理由を言えない独り相撲でしたが、そこに当時の切迫した空気があります。続けて彼は、開国後の暗殺の性質が、単なる外国人嫌いから、政治的な意味を帯びた攘夷へと変わっていく過程を整理します。手塚律蔵や東条礼蔵が長州人に襲われたことは、洋学者全体への脅しでした。出来事の背景を構造として捉え、恐怖に飲み込まれずに歴史を整理する冷静さも、同時に読み取れます。

この章句が説くこと

床下の逃げ道暗殺の歴史尊王攘夷洋学者手塚律蔵売国奴

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