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福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)

それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。

新字:それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福沢諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福沢等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。

書き下し

それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。

現代語訳

それからヨーロッパに行くことになり、船が出発したのは文久元年十二月のことでした。このたびの船は、日本の使節が行くというので、イギリスから迎えの船のようにして来たオーディンという軍艦で、その軍艦に乗って香港、シンガポールというようなインド洋の港々に立ち寄り、紅海に入って、スエズから上陸して蒸気車に乗り、エジプトのカイロに着いて二晩ほど泊まり、それから地中海に出て、そこからまた船に乗ってフランスのマルセイユ、そこで蒸気車に乗ってリヨンに一泊、パリに着いて滞在およそ二十日、使節の用事を終えて、パリを去ってイギリスに渡り、イギリスからオランダ、オランダからプロシアの都ベルリンに行き、ベルリンからロシアのペテルブルグ、それから再びパリに帰ってきて、フランスから船に乗ってポルトガルに行き、それから地中海に入って、元のとおりの順路を経て帰ってきたその間の年月はおよそ一か年、すなわち文久二年いっぱいで日本に帰ってきました。 さて今度の旅行について申せば、私もこのときにはもう英書を読み英語を話すことがだんだんできるようになっており、それから前に申したとおり金もいくらか持っていたのですが、その金は何も使いどころがないので、ただ日本を出るとき尋常一様の旅装をしただけで、そのころは物価の安い時ですから、そんなに金の要るわけもなく、その余った金はみな携えて行って、ロンドン逗留中、ほかに買い物もなく、ただ英書ばかり買ってきました。これがそもそも日本への輸入の始まりで、英書が自由に使われるようになったというのも、これからのことです。 それからあちらの国を巡回中、いろいろ観察し見聞したことも多いのですが、これは後の話にして、まず使節一行の有様を申しますと、その人員は、 竹内下野守(正使)、松平石見守(副使)、京極能登守(御目付)、柴田貞太郎(組頭)、日高圭三郎(御勘定)、福田作太郎(御徒士目付)、水品楽太郎(調役)、岡崎藤左衛門(同)、高嶋祐啓(御医師、ただし漢方医)、川崎道民(雇医)、益頭駿次郎(御普請役)、上田友助(定役元締)、森鉢太郎(定役)、福地源一郎(通訳)、立広作(同)、太田源三郎(同)、斎藤大之進(同心)、高松彦三郎(御小人目付)、山田八郎(同)、松木弘安(翻訳方)、箕作秋坪(同)、福澤諭吉(同) 右のほかに、三使節の家来が二、三人ずつ、賄い・小使いが六、七人。この小使いの中には、内緒で諸藩から頼まれて乗り込んだ立派な士人もいます。松木、箕作、福澤らは、役人のようなものではありますが、大名の家来、いわゆる陪臣の身分ですから、一行の中で一番下席で、総人数およそ四十人足らず、いずれも日本服に大小の刀を差してパリ、ロンドンを闊歩したのもおかしなことでした。

解説

文久遣欧使節は、一八六二年に幕府が派遣した、開市開港延期交渉を主な使命とする一行です。福沢は翻訳方として加わり、一年かけて香港、スエズ、カイロ、パリ、ロンドン、オランダ、ベルリン、ペテルブルグ、リスボンを巡りました。この段で注目したいのは、余った手当を全部英書の購入に充てた点です。金の使いどころは見聞と学びだと、はっきり決めていました。陪臣のため一行中の最下席という扱いでも、自分の目的を見失いません。現代でも、出張や研修の余裕資金を何に投じるかは、その人の優先順位を映します。

この章句が説くこと

遣欧使節文久英書購入翻訳方陪臣優先順位

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