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福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・事情探索の胸算

夫れは扨置き私の欧羅巴巡回中の胸算は、凡そ書籍上で調べられる事は日本に居ても原書を読で分らぬ処は字引を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り易い事で殆んど字引にも載せないと云うような事が此方では一番六かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと思て、その方向で以て是れは相当の人だと思えばその人に就て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々斯う云うように(この時先生細長くして古々しき一小冊子を示す)記して置て、夫れから日本に帰てからソレを台にして尚お色々な原書を調べ又記憶する所を綴合せて西洋事情と云うものが出来ました。凡そ理化学、器械学の事に於て、或はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても宜しいと云うのは、元来私が専門学者ではなし、聞た所が真実深い意味の分る訳けはない、唯一通りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分るから、コンナ事の詮索は先ず二の次にして、外に知りたいことが沢山ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費の金はどんな塩梅にして誰が出して居るのか、又銀行と云うものがあってその金の支出入は如何して居るか、郵便法が行れて居てその法は如何云う趣向にしてあるのか、仏蘭西では徴兵令を行して居るが英吉利には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、抑も如何云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無分らない。分らないから選拳法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人は只笑て居る、何を聞くのか分り切た事だと云う様な訳。ソレが此方では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬を削て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考の付こう筈がない。彼の人と此の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲で飯を喰て居る。少しも分らない。ソレが略分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂れ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛てヤット胸に落ると云うような訳で、ソレが今度洋行の利益でした。

書き下し

夫れは扨置き私の欧羅巴巡回中の胸算は、凡そ書籍上で調べられる事は日本に居ても原書を読で分らぬ処は字引を引て調べさえすれば分らぬ事はないが、外国の人に一番分り易い事で殆んど字引にも載せないと云うような事が此方では一番六かしい。だから原書を調べてソレで分らないと云う事だけをこの逗留中に調べて置きたいものだと思て、その方向で以て是れは相当の人だと思えばその人に就て調べると云うことに力を尽して、聞くに従て一寸々々斯う云うように(この時先生細長くして古々しき一小冊子を示す)記して置て、夫れから日本に帰てからソレを台にして尚お色々な原書を調べ又記憶する所を綴合せて西洋事情と云うものが出来ました。凡そ理化学、器械学の事に於て、或はエレキトルの事、蒸汽の事、印刷の事、諸工業製作の事などは必ずしも一々聞かなくても宜しいと云うのは、元来私が専門学者ではなし、聞た所が真実深い意味の分る訳けはない、唯一通りの話を聞くばかり、一通りの事なら自分で原書を調べて容易に分るから、コンナ事の詮索は先ず二の次にして、外に知りたいことが沢山ある。例えばコヽに病院と云うものがある、所でその入費の金はどんな塩梅にして誰が出して居るのか、又銀行と云うものがあってその金の支出入は如何して居るか、郵便法が行れて居てその法は如何云う趣向にしてあるのか、仏蘭西では徴兵令を行して居るが英吉利には徴兵令がないと云う、その徴兵令と云うのは、抑も如何云う趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓と分らない。ソレカラ又政治上の選拳法と云うような事が皆無分らない。分らないから選拳法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人は只笑て居る、何を聞くのか分り切た事だと云う様な訳。ソレが此方では分らなくてどうにも始末が付かない。又党派には保守党と自由党と徒党のような者があって、双方負けず劣らず鎬を削て争うて居ると云う。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をして居ると云う。サア分らない。コリャ大変なことだ、何をして居るのか知らん。少しも考の付こう筈がない。彼の人と此の人とは敵だなんと云うて、同じテーブルで酒を飲で飯を喰て居る。少しも分らない。ソレが略分るようになろうと云うまでには骨の折れた話で、その謂れ因縁が少しずつ分るようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛てヤット胸に落ると云うような訳で、ソレが今度洋行の利益でした。

現代語訳

それはさておき、私のヨーロッパ巡回中の胸算用はこうでした。書物の上で調べられることは、日本にいても原書を読み、わからない所は辞書を引けばわかる。しかし外国人にとって一番わかりきっていて、辞書にもほとんど載せないようなことが、こちらでは一番難しい。だから原書を調べてもわからないことだけを、この滞在中に調べておきたいと思い、この人ならと思う相手にはその人について調べることに力を尽くし、聞くそばから、こういうふうに(このとき先生は細長くて古びた小冊子を示す)書き留めておいて、日本に帰ってからそれを土台に、さらにいろいろな原書を調べ、記憶していることをつなぎ合わせて、『西洋事情』という本ができました。理化学や機械学のこと、たとえば電気のこと、蒸気のこと、印刷のこと、いろいろな工業製品のことなどは、必ずしも一つ一つ聞かなくてもよいと考えました。もともと私は専門の学者ではなく、聞いたところで本当に深い意味がわかるはずもなく、ひととおりの話を聞くだけです。ひととおりのことなら自分で原書を調べればたやすくわかるので、こういうことの詮索はひとまず二の次にして、ほかに知りたいことが山ほどありました。たとえばここに病院というものがある。ではその費用は、どんなふうにして誰が出しているのか。銀行というものがあって、そのお金の出し入れはどうしているのか。郵便法が行われているが、その法はどういう仕組みなのか。フランスでは徴兵令を行っているが、イギリスにはないという。その徴兵令とはそもそもどういう仕組みなのか。そのあたりの事情がまるでわからない。それから政治上の選挙法のようなことも、まったくわからない。わからないので、選挙法とはどんな法律か、議院とはどんな役所かと尋ねると、向こうの人はただ笑っています。何を聞くのか、わかりきったことだというわけです。それがこちらにはわからず、どうにも始末がつかない。また政党には保守党と自由党というものがあって、徒党のように、双方負けず劣らず火花を散らして争っているという。何のことだ、太平無事の世の中で政治上の喧嘩をしているという。さあわからない。これは大変なことだ、何をしているのだろう。まるで見当がつくはずもない。あの人とこの人は敵同士だと言いながら、同じテーブルで酒を飲み飯を食べている。少しもわからない。それがだいたいわかるようになるまでには骨の折れる話で、その由来や因縁が少しずつわかってきて、入り組んだ事柄になると五日も十日もかけてようやく腑に落ちるというありさまで、それが今度の洋行の収穫でした。

解説

福沢が欧州行きに持っていった胸算用の話です。字引と原書で調べられることは日本でも足りるので、現地でしか学べない「当たり前すぎて誰も書かないこと」だけを拾いに行く、という割り切りが見事です。病院の費用、銀行、郵便、徴兵、選挙、政党。制度の裏にある仕組みと運用が彼の関心でした。1862年の文久遣欧使節に随行した経験が、のちの『西洋事情』になります。現代の仕事でも、マニュアルや資料に載らない暗黙の前提こそ現場に行かないと分かりません。調べる前に、何は調べなくてよいかを決める姿勢が参考になります。

この章句が説くこと

胸算原書制度現場暗黙知西洋事情

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