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福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・血を恐れる

ソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は聞たが、序ながらこの見聞のことに就て私の身の恥を云わねばならぬ。私は少年の時から至極元気の宜い男で、時として大言壮語したことも多いが、天禀気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺流行の時代で、同窓生は勿論私も腕の脈に針をして血を取たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持が善くないから、刺と云えばチャント眼を閉じて見ないようにして居る。腫物が出来ても針をすることは先ず見合せたいと云い、一寸とした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。毎度都会の地にある行倒、首縊、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜に滞留中、或る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作も松木も医者だから直ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入て見れば石淋を取出す手術で、執刀の医師は合羽を着て、病人をば俎のような台の上に寝かして、コロヽホルムを臭がせて先ず之を殺して、夫れからその医師が光り燿く刀を執てグット制すと、大造な血が迸って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口に釘抜のようなものを入れて膀胱の中にある石を取出すとか云う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎と云う男が私を助けて室外に連出し、水など呑まして呉れてヤット正気に返た。その前独逸の伯林の眼病院でも、欹目の手術とて子供の眼に刀を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木も箕作も私に意気地がないと云て頻りに冷かすけれども、持て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

書き下し

ソレでも私共は見ようと思うものは見、聞こうと思う事は聞たが、序ながらこの見聞のことに就て私の身の恥を云わねばならぬ。私は少年の時から至極元気の宜い男で、時として大言壮語したことも多いが、天禀気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺流行の時代で、同窓生は勿論私も腕の脈に針をして血を取たことがある。所が私は自分でも他人でもその血の出るのを見て心持が善くないから、刺と云えばチャント眼を閉じて見ないようにして居る。腫物が出来ても針をすることは先ず見合せたいと云い、一寸とした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。毎度都会の地にある行倒、首縊、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞ても逃げて廻ると云うような臆病者である。所が露西亜に滞留中、或る病院に外科手術があるから見物せよとの案内に箕作も松木も医者だから直ぐに出掛ける。私にも一処に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入て見れば石淋を取出す手術で、執刀の医師は合羽を着て、病人をば俎のような台の上に寝かして、コロヽホルムを臭がせて先ず之を殺して、夫れからその医師が光り燿く刀を執てグット制すと、大造な血が迸って医者の合羽は真赤になる、夫れから刀の切口に釘抜のようなものを入れて膀胱の中にある石を取出すとか云う様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎と云う男が私を助けて室外に連出し、水など呑まして呉れてヤット正気に返た。その前独逸の伯林の眼病院でも、欹目の手術とて子供の眼に刀を刺す処を半分ばかり見て、私は急いでその場を逃出してその時には無事に済んだことがある。松木も箕作も私に意気地がないと云て頻りに冷かすけれども、持て生れた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

現代語訳

それでも私どもは、見ようと思うものは見、聞こうと思うことは聞きましたが、ついでながら、この見聞のことについて、私の身の恥を言わなければなりません。私は少年のときから至って元気のよい男で、ときには大言壮語したことも多いのですが、生まれつき気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌いです。たとえば緒方の塾にいるときは、刺絡(血を取る療法)の流行した時代で、同窓生はもちろん私も腕の脈に針をして血を取ったことがあります。ところが私は、自分でも他人でも血の出るのを見ると気持ちがよくないので、刺絡といえばちゃんと眼を閉じて見ないようにしています。腫れ物ができても、針をすることはまず見合わせたいと言い、ちょっとした怪我でも血が出ると顔色が青くなります。しばしば都会の地にある行き倒れ、首吊り、変死人などは、どうしても見ることができません。見物どころか、死人の話を聞いても逃げ回るという臆病者です。ところがロシア滞在中に、ある病院で外科手術があるから見物せよとの案内があり、箕作も松木も医者ですからすぐに出かけます。私にも一緒に行けと無理に勧められて連れて行かれ、外科室に入って見ると、石淋(膀胱結石)を取り出す手術で、執刀の医師は合羽を着て、病人を俎のような台の上に寝かせ、クロロホルムをかがせて、まずこれを仮死にしてから、その医師が光り輝く刀を取ってぐっと切ると、大量の血がほとばしって、医者の合羽は真っ赤になります。それから刀の切り口に釘抜きのようなものを入れて、膀胱の中にある石を取り出すという様子でしたが、そのうちに私は変な気持ちになって、何だか気が遠くなりました。すると、同行の山田八郎という男が私を助けて室外に連れ出し、水などを飲ませてくれて、やっと正気に返りました。その前、ドイツのベルリンの眼病院でも、斜視の手術として、子供の眼に刀を刺すところを半分ほど見て、私は急いでその場を逃げ出し、そのときは無事に済んだことがあります。松木も箕作も、私に意気地がないといってしきりに冷やかしますが、生まれつきの性質はしかたがありません。生涯これで死ぬことでしょう。

解説

遣欧使節の見聞録の中で、福沢は自分の弱点をはっきり書きます。大言壮語の少年が、実は血を見るのが大嫌いで、ロシアの病院で外科手術を見て気を失ったという話です。ここには麻酔にクロロホルムを使い、結石の摘出を行う当時の最新の医療の様子も記録されています。福沢は医者である箕作秋坪や松木弘安にからかわれても、生まれつきの性質はしかたがないと開き直ります。勇ましく見える人にも苦手はあり、それを隠さずに語る率直さが、人の信頼につながります。弱点を認めて笑える力は、現代の職場でも、チームの空気を軽くします。

この章句が説くこと

血を恐れる外科手術クロロホルム山田八郎弱点率直さ

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