福翁自伝 / 老余の半生・身体運動
ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になるとが切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曾是綿糸縫人 と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
新字:ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になるとが切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曽是綿糸縫人 と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
書き下し
ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になるとが切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曾是綿糸縫人 と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
現代語訳
それから私の身体運動はどうかと、その話もしましょう。幼年のときから貧しい家に生まれたので、身体の運動は嫌でもしなければなりませんでした。それが習慣になって、生涯身体を動かしています。少年のときは荒仕事ばかりして、冬になると手足にあかぎれが切れて血が出る、すると木綿糸でその切り口を縫って、熱い油を垂らして自分で手当てをしていたことを覚えています。江戸に来てからは自然そんなことがなくなったので、あるとき、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曾是綿糸縫人 という詩のようなものを記したことがあります。(若い日の私は、下賤の仕事を何でもこなした。立身した今、かえって身体を損なうのを自ら笑う。入浴後、静かに座れば肌はすっかりきれいで、かつてあの綿糸で縫った肌とは思えない、という意味です。) また藩中にいて武芸をしなければ人でないという風でしたから、中村庄兵衛という居合の先生に就いて少し稽古をしました。その後、洋学修業に出てからは、国にいるときのように荒い仕事をしないので、ずっと居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷にいるときも、緒方の塾でも、折々どたばたやっていました。それから江戸に来て、世間に攘夷論が盛んになってからは居合をやめにして、かねて腕に覚えのある米搗きを始め、ときどきやっていたところ、明治三年に大病を患って、病後どうしても元のようになりません。 その年か翌年か、岩倉大使が欧米へ行くことになり、親友の長与専斎も随行を命じられ、まもなく出立するとて私の家に告別に来て、キニーネ一オンスの瓶を懐から出し、「君の大病は全快はしたが、来年その季節になると何か故障を生じて、薬品が必要になるに違いない。これは塩酸キニーネの最上の品で、薬店などにはない。これをやるから大事にとっておけ。僕の留守中に思い当たることがあろう」と言うのは、実に友人の親切ですが、私はかえって喜びません。「馬鹿なことを言ってくれるな。病気全快の僕の身に薬なんか要るものか。面白くもない。僕はもらわない」と言うと、長与が笑って、「知らないことを言うな。きっと役に立つことがあるから、黙って取っておけ」と言って、その薬を私に渡して別れました。ところが果たしてそのとおりで、長与の外遊留守中、毎度発熱して、それキニーネまたキニーネと、とうとう一オンスの品を飲み尽くしたという容体で、何分にも力が回復しません。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・老余の半生・居合、米搗今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝の三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を抜たり米を搗たり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が降ても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋戯れに、 一点寒鐘声遠伝 半輪残月影猶鮮 草鞋竹策侵秋暁 歩自三光渡古川 なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。
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福翁自伝・老余の半生・病に媚びず横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引もフラネルで拵え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を纏うて居た所が、頓と効能が見えぬ。ドウかすると風を引て悪寒を催して熱が昇る。毎度の事で、凡そ二年余り三年になっても同様であるから、或日私が大に奮発して、是れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、云わば病に媚るようなものだ。此方から媚るから病は段々付揚る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より外に要はないから、自分で摂生を試みましょう。抑も自分の本は田舎士族で、少年のとき如何なる生活して居たかと云えば、麦飯を喰い唐茄子の味噌汁を啜り、衣服は手織木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑しい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞う。即ち今日風を引たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る誤であるから、直に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引も脱ぎ棄てゝ仕舞て、唯の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時計り、騎馬の服と定めて、不断は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通しても構わず家にも居れば外にも出る。唯食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗薪割に身を入れて、少年時代の貧乏世帯と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下たこともない。随分調子の宜しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。扨私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎に角に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと云うこと丈けは確かに分る。但し肌に寒風の吹通しが有益であるか、又は外の摂生を以て体力が強くなって、実際害に為るべき寒風にも能く抵抗して之に堪うるのであるか、即ち寒風その物は薬に非ず、寒風をも犯して無頓着と云うその全般の生活法が有益であるか、凡そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは扨置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊に十年間鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を勉めることにしました。
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福翁自伝・老余の半生・身体の養生扨又心の養生法は右の如しとして、身の養生は如何だと申すに、私の身に極めて宜しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、然かも図抜けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても宜いと云う人があるが、私は左様でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に能く分る。先年中一樽の価七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人で、その上等の酒をウンと飲んで、肴も良い肴を沢山喰い、満腹飲食した跡で飯もドッサリ給べて残す所なしと云う、誠に意地の穢ない所謂牛飲馬食とも云うべき男である。尚おその上に、この賤しむべき男が酒に酔て酔狂でもすれば自から警めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば唯大きな声をして饒舌るばかり、遂ぞ人の気になるような忌がるような根性の悪いことを云て喧嘩をしたこともなければ、上戸本性真面目になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。是れが却て不幸で、本人は宜い気になって、酒とさえ云えば一番先きに罷出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も愧かしい事であるが、酒の事を除てその外になれば、私は少年の時から宜い加減な摂生家と云ても宜しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな六かしい考のあろうようもないが、日に三度の食事の外にメッタに物を食わない。或は母が給べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。殊に晩食の後、夜になれば如何なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を更かすとかして、自然に其処に食物が出て来ても食う気にならぬ。是れは母に仕込まれた習慣が生涯残て居るのでしょう。摂生の為めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く遣ると云う風で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯と何とやらは武士の嗜なんと云て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと思て居たが、何分にも頬張て生噛にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を知て、始めて是れは却て自分の悪い癖が宜い事になったと合点して大きに悦び、爾来憚る所もなくゆる/\食事をして、凡そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の為めに甚だ宜しい。
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福翁自伝・大阪修業・緒方先生の深切夫れから私はその時に今にも忘れぬ事のあると云うのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹と診て遣る。診て遣るけれども乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うて仕舞う。此の薬彼の薬と迷うて、後になって爾うでもなかったと云て又薬の加減をすると云うような訳けで、仕舞には何の療治をしたか訳けが分らぬようになると云うのは人情の免れぬ事であるから、病は診て遣るが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れと云て、先生の朋友、梶木町の内藤数馬と云う医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰て、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とか云うものは、人数も多く迚も手に及ばない事で、その師弟の間は自から公なものになって居る、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授るに迷うと云うのは、自分の家の子供を療治して遣るに迷うと同じ事で、その扱は実子と少しも違わない有様であった。後世段々に世が開けて進んで来たならば、こんな事はなくなって仕舞ましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べて見て大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い又思わずには居られません。ソレカラ唯今申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気も中々軽くない。煩い付て四、五日目から人事不省、凡そ一週間ばかりは何も知らない程の容体でしたが、幸にして全快に及び、衰弱はして居ましたれども、歳は若し、平生身体の強壮なその為めでしょう、恢復は中々早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄は僂麻質斯を煩て居り、私は熱病の大病後である、如何にも始末が付かない。
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福翁自伝・大阪修業・兄弟共に病気ソコで安政二年も終り三年の春になると、新春早々茲に大なる不仕合な事が起って来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄が僂麻質斯に罹り病症が甚だ軽くない。トウ/\手足も叶わぬと云う程になって、追々全快するが如く全快せざるが如くして居る間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持て書くと云うような容体。ソレと同時にその歳の二月頃であったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で、予て世話になって居た加州の岸直輔と云う人が、腸窒扶斯に罹って中々の難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。又加州の書生に鈴木儀六と云う者があって、是れも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人、昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとう/\助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送て遣ろうと両人相談の上、遺骸を大阪の千日の火葬場に持て行て焼て、骨を本国に送り、先ず事は済んだ所が、私が千日から帰て三、四日経つとヒョイと煩い付た。容体がドウも只の風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生は皆医者だから、誰かに見て貰た所が、是れは腸窒扶斯だ、岸の熱病が伝染したのだと云て居る間に、その事が先生に聞えて、その時私は堂嶋の倉屋敷の長屋に寝て居た所が、先生が見舞に見えまして、愈よ腸窒扶斯に違いない、本当に療治しなければ是れは馬鹿にならぬ病気であると云う。
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福翁自伝・老余の半生・漸く酒を節すソレカラ又酒の話になって、私が生得酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分自由に飲むことは飲んだが、兎角銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の傍ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと云うような訳けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず能くも飲みました。夫れから三十二、三歳の頃と思う。独り大に発明して、斯う飲んでは迚も寿命を全くすることは叶わぬ、左ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、唯一時の事で永続きが出来ぬ、詰り生涯の根気でそろ/\自から節するの外に道なしと決断したのは、支那人が阿片を罷めるようなもので随分苦しいが、先ず第一に朝酒を廃し、暫くして次ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張り客来を名にして飲んで居たのを、漸く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、是れ丈けは如何やら斯うやら首尾能く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、稍や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき酷い熱病に罹て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、是れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜に相違ないと云たのを覚えて居るから、私が生涯鯨飲の全盛は凡そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と云うよりも年齢老却の所為でしょう。兎に角に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂には唯の清酒は利きが鈍いなんてブランデーだのウ※スキーだの飲む者があるが、アレは宜くない。苦しかろうが罷めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、況して今の大酒家と云ても私より以上の者は先ず少ない、高の知れた酒客の葉武者だ、そろ/\遣れば節酒も禁酒も屹と出来ましょう。
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